浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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英国の鳥(3)

 

 

湖水のゲストハウス

 

カメ吉が生まれ、オトメと2人して私に合流してからは、私は下宿暮らしを卒業し、大学のゲストハウスに住めることになった。

 

この大学は、恵まれた環境にあった。敷地に隣接していた小さいゴルフコースを、政府が買い取ってキャンパスを拡張していた。

緑が豊富であり、大きな池があった。湖と言っては大袈裟かもしれないが、ジョギングで一周すると、かなり堪えた。

 

湖水にはアヒルと白鳥が泳ぎ、またカモメが来遊していた。カモメは海辺にいるものと、見たところ変わらない。海辺まで車で30分程度の街であったので、カモメは海岸と湖水を行き来していたのかもしれない。

 

ゲストハウスは、各国からのビジターや私のような研究員が、家族とともに住むために、キャンパス内に建てられたものである。3階建ての棟割住宅であった。

 

池から100mほどの距離にあり、ハウスの南側から湖岸まで、芝生が続いている。

緩い傾斜地に建っているため、一階の窓から首を出すと、床よりかなり高いところに芝生があり、リビングの窓を跨いでそこに出ることができた。

 

私は、休日にはカメを膝に抱き、オトメとともに窓辺に腰掛けて、芝生に寝転んで日光浴を楽しむ隣人達と会話を楽しんだ。

 

やがてカメも、芝生に出て遊ぶようになり、私たちは人々とともに、昼食を外で摂ることもあった。

 

  

 

ヒルの大行進

 

 

この長屋に住むスペインの家族が、ある日の早朝、前日のパンの残りを、鳥の餌として窓から芝生にばら撒いた。

 

これを最初に見つけたのは、湖のアヒルであったようだ。湖岸までかなりの距離であるので、どうやって見つけたのかは不明であるが・・・

 

その家の子供たちは2,3羽のアヒルがパン屑をついばむのを楽しみに、翌日も同じことをした。翌日はアヒルの数が増えた。

 

三日目の朝には、さらに集団は大きくなったが、パン屑が置かれていなかったため、アヒルは窓の外でガー、ガーと鳴き、催促した。家族はその日に食べる予定だったパンの一部を与えた・・・

 

 

ヒルの催促は、休日の早朝であったため、近隣から、うるさいと苦情が出た。

スペインの家族は、パンを与えることを控えたが・・・一度知ってしまったアヒルたちは、連日やって来て催促し、諦めない。

 

黙らせるためには、パンをやるしかない。結局、その他の家族も、1軒、2軒・・・と加わるようになり、最後には、苦情を言った人々も含めて、長屋の全員がパンをやるようになった。

 

 

その頃には、池のすべてのアヒルが、行列でやってくるようになっていた。

 

彼等は大変に行儀が良い。 グアッ、グエッ・・・ と小さな声を発しながら、一列に並んで歩いて来る。湖水から長屋まで続く、長い行列である。そして、先頭の者はパン屑をくわえると、下がって列の後ろに付き、次の者が一歩進む。

  

英語に「乞食の群れにパンを一切れ放り投げる」という表現があるが・・・どうやら、人間より行儀が良い。

 

 

 

 余談

 

この長屋には、香港からやってきた中国人の家族が住んでいた。

御主人のK氏は、もともと病院の検査技師であったが、バイオサイエンスの大学院生として社会人入学していた。奥さんが夜勤の看護婦の仕事で、家計を支えていた。

 

彼らはある日、私達も含めて数組の長屋の家族を招待し、御主人の手料理の北京ダックをふるまった。K氏は料理の達人であり、料理は本格的であった。

 

 

食事を堪能した後、人々は、ダックはどの店で手に入るのか、と口々に尋ねたが・・・

 

彼は微妙な笑みを浮かべ、何も答えなかった。

 

彼はジョークの達人でもあったが・・・ 

 

 

(続く)

回り道をした人々5(後編)

 

 

中編から続く)

  

・・・しかし、このような私の指導は、どうも裏目に出た可能性がある・・・

 

 

研究室訪問

 

A君がアカデミックな研究職の希望を持っていることを、私は感じていた。しかし彼の年齢は、その道を選ぶには微妙であった。

 

博士号を取得するには問題はないが、研究の世界にとどまるためには、その後何年間か、研究員を経験し、それから研究機関の正規ポストに応募することになる。それには実質的な年齢制限があった。

 

私は後期博士課程の進学先を考えるにあたり、メジャーな他大学の、ある先生の研究室を訪問してみることを勧めた。私の研究室で後期博士課程に進み、博士号を取得することは可能であったが、それを私から勧めることはしなかった。その先生は、オーソドックスなスタイルの優れた理論家であり、人間的にも信頼できる。そして私が知る範囲では、学問的な方向性が彼に最も適していた。

 

研究室訪問に際して、私から事前に連絡を取ることは避け、本人の自主的訪問に任せた。私の学生であることは、先方も認識していたと思われる。すでに修士論文の研究成果はまとまっており、これを持参して面談に臨んだ結果、先生はA君にかなりの期待感を持ち、博士課程への進学は事実上内定した。

 

 

 

A君の選択

 

ところがA君は、別の大学にも併願していたのである。彼は意外にも、ブランド大学に憧れ、(訪問した大学も十分なブランド大学であったが)最後の段階でそちらを選んだ。そして、併願の事実を知らされていなかった先生を驚かせ、大いに失望させることとなった。

 

 

物理学の世界では、人間関係のこじれが将来に影響を及ぼすことはあまりない。多くの研究者は、そのようなことが起こることを戒める。やや極端な言い方をすれば、学問的な判断が社会的常識に優先する。経験を積んだ研究者は、自分の実力を高めるための若者の利己主義には寛大であり、むしろ評価の対象とする。それを最優先にした選択であれば、それは生きたであろう。

  

しかし、決定的に重要であるのは、指導教官が、研究者としての将来を視野に入れて指導する気があるか否かである。

 大学院の定員は、適正水準を超えて、大幅に増やされてきた。メジャーな大学は、定員の範囲で志願者を受け入れるが、地方の小さな大学からフリーで志願してきた者が、将来の研究者として期待される可能性は低い。とくに後期博士課程への編入では、指導教官同士の信頼関係が大きく物を言う。

 

A君が研究者への道を強く望んでいたかは定かでないが、その可能性は、彼が別の進学先を選んだ時点で、ほぼ消滅したと言える。年齢を考えると、彼の選択は、それを承知の上であったのかもしれない。

 

A君が進学先として選んだ大学では、S君という卒業生が、研究員として勤務していた(彼は私の研究室の後期博士課程学生の第1号で、今では研究者として大変立派なキャリアを築いている)。学内の指導体制をつぶさに見ていたS君は、心配してアドバイスを与えていたが、A君は従わなかった。

 

  

その後、A君からの連絡は途絶えたが、3年後にS君からの知らせで、A君は無事に博士号を取得し、企業に就職が決まったことを知った。彼の能力と物理学の知識が、ある程度は生かせる職場だったようである。

 

 

人生の選択は、個々人の価値観と優先順位で決まる。そして、自分にとって最適な優先順位は、自ら経験によって学ぶしかない。

 

A君は自分にとって最良の選択をして、回り道を終えたのか・・・

 

あるいは人生の冒険者として、まだその途中にあるのか・・・

 

それは、彼にもまだ、分からないのかもしれない。

 

回り道をした人々5(中編)

 

 

前編から続く)

 

彼に叱責を与えたのは、この一度だけであるが・・・

 

 

反逆者の顔

 

指導を進めるうちに、A君の反逆的な気質は徐々に姿を現すようになった。そして彼は時々、私の指導に逆らった。

 

実は、ワークステーションの立ち上げの時が最初ではなかった。最初は、卒業研究の発表の時である。自分流のやり方に拘り、ついに最後のリハーサルをすっぽかして、発表会の本番に臨んだ。

 

発表会では教官が採点し、順位付けを行う。内容的には他の学生より圧倒的に高いレベルであったが、採点結果は下から数えた方が早かった。自分が何をやらされているのか解っていない口パク学生が、軒並み上位に名を連ねた。

 

 

私はそのような採点結果になることを予想していたので、あらかじめ注意していたが、彼は「教官同士の争いに、学生を巻き込まないで下さい!」と言い放った。 

 

ストレートな表現に驚いたが、確かに卒業研究の発表会には、そのような側面があったことは否めない。採点の基準にも、教育を妨げると思えるほど馬鹿げたものが幾つかあった。口パクでも高得点が得られるようにしているからである。批判的な意見を持ちながらも、他の教官に同調すると見える私の態度に、彼は苛立っていた。

 

採点の基準も、悪いものばかりではなかったが・・・不条理な制度でも、それを利用しつつ、自分を成長させなければならない、ということを、彼は理解しなかった。

 

 

修士課程に進んでからは、学外の研究会で何度か研究発表させた。彼の自由にやらせた発表は評判が良かった。

実際には、自分で試行錯誤を繰り返し、結果的に私が指導する方向に近づいていた。そのころは、私のアドバイスにもある程度、耳を傾けるようになっていたが。

 

 

 

Y嬢の不満

 

A君は、他人の面倒を見ることをしなかった。

 

大学の研究室の良いところは、上級生から下級生へ、様々な知識やコツが代々伝わり、効率の良い学習ができることであるが・・・

 

彼をこのシステムに組み込むことはできなかった。

また、そのスタンスによって、彼の責任とは言えないものの、研究室内に多少の波風が立つこともあった。

  

 

 

研究室にY嬢という、極端に他人依存型の学生がいた。

 

私たちのゼミは、学外者も参加するため、土曜日の午前中に行っていたが、その日の朝、彼女はアパートの出入口で車輪を溝にはめ、動けなくなった。

 

救出のため、ゼミのメンバーは電話でかき集められたが、まだベッドにいたA君は、現場に現れなかった。

 

救出劇が終了し、ゼミは30分遅れで開始されたが、A君は丁度その時を計ったように研究室に現れた。人々に何をやっていたのかと問われ、いつもどおり朝食を済ませた後、ゼミが少し遅れることを見越して、食後のコーヒーを飲んでいた、と答えた。

 

「予測はぴったりだった」と付け加えた。

 

 

Y嬢は過去にも1度、全く同じ場所で、全く同じように車輪をはめている。そのような場合、彼女はJAFに電話せず、仲間を呼ぶ。自分で何とかする手段があっても、まず知り合いに頼る。

 

休日の早朝に路上でガス欠になり、私に電話してきたこともあった。記憶が正しければ、正月の2日である。その時は私に見捨てられ、行きずりの男性を捉まえて、ガソリンスタンドまで車を押してもらっていた。(ちなみに、「私に 捨てられ、行きずりの男性を捉まえ・・・」ではない。誤解なきように)。

 

すべてに手のかかる子であり、「幼稚園児」とか「因幡の白兎」とか言われつつ、結局は人を手伝わせることに成功していたが・・・A君は難攻不落であった。

 

 

 

ある日Y嬢は、私の学生に対する対応が不公平である、と小学生のように不満を訴えてきた。その日のゼミナールでA君は遅刻したが、私が黙って許したことを指摘し、彼は叱られず自分はいつも叱られている、とこぼした。

 

私が時間に関して厳しくなかったのは事実である。しかし、A君だけを放任していたわけではない。私は学問的なところでは引き締めていたが、それ以外の振る舞いについては、小言をなるべく控えていた。

学生は大人として扱うべき、という考えもあった。私の学生時代には、多くの教官が、学生に敬語で接していた。同様の原則を心がけたのである(現実にはそうもいかなかったが・・・ )。

 

そして遅刻に関しては、私自身も時間にルーズな人間だったので、ほとんど注意しなかった。前編の記事に「学生は良くも悪くも教師の影響を受ける」と書いたが、A君と私の類似点は、物理学以外にも多々あった。指導教官の欠点は、このようにして受け継がれて行く。

 

幸いにも殆どの学生は、私がすべての面で厳しい、と勝手に誤解し、時間厳守にも気を付けていた。私は彼等のために、敢えて誤解を解く努力は控えていた。

 

 

したがって、Y嬢の不満が解消されることは無かった。

 

・・・しかし、このような私の指導は、どうも裏目に出た可能性がある・・・

 

後編に続く)

 

 

回り道をした人々5(前編)

 

 

ロンリー・ウルフ

 

A君は、私が学部から修士課程の修了まで指導した学生である。その後、メジャーな大学の博士課程に進み、博士号を取得した。

 

 

A君は私の担当科目をすべて履修したが、彼のレポートを添削したことは、ほとんどない。あるとすれば、情報量を落とさず簡潔に書くようにアドバイスして、文章を直した程度である。それも2,3度だけで、すぐに必要が無くなった。

 

このように書くと典型的な秀才のイメージであるが、様子はかなり違っていた。答案やレポートは入学当初から際立っており、注目されていたが、同時に多くの教官は、その完成度にやや怖れを抱いていたように思う。それには、彼の存在感も影響していた。常に一人で行動し、孤高というよりは、一匹狼の雰囲気があった。

 

必修科目の授業で、彼のレポートのコピーが出回ることがあれば、翌年から指導に大きな支障が出たであろう。が、彼には他を寄せ付けない雰囲気があり、そのような目的で彼に近づく学生は、一人もいなかった。

 

 

A君の回り道

 

卒業研究を開始してから間もなく、A君の年齢が実はかなり高い、と言う噂が伝わり、研究室の飲み会の時に、彼は質問攻めにあった。彼は隠すことなく話した。

 

中学を卒業してすぐ、大工の見習いとして3年間働いたそうである。その後、やはり高校は行った方が良い、と考え直して進学したが、私の記憶が正しければ、2年で中退している。

その後、純正品でないプリンターのインクを扱う会社に数年勤めた。使用済みのカートリッジに別のインクを詰めて販売する仕事である。しかし、これが違法か否かが、裁判で争われることになり、A君は会社の将来に見切りをつけ、退社した。結局、裁判には勝訴したが、どちらにしろ仕事は面白くなかった。その後、大学検定を経て大学に進学した。

 

このような経歴を、皆は面白がって聞いていたが、話の経緯から、性格的に集団に馴染まず、押し付けに反発するタイプであることが予想された。そして、恐らくは損得より自分の感情を優先する。

それぞれの転進の節目で、人間関係のトラブル(もしかすると教師や両親も含めて)を伴っていた可能性は高い。しかし、それらについては全く言及せず、事実を述べるだけで感情は覗かせなかった。

 

 

取扱い注意の男

 

このような若者は、強制のための強制で抑え付けると、ろくなことにならない。学校教育からは、ドロップアウトすることが多いのである。私の研究室には、しばしばこのような学生が入ってきた。

 

 もともと精神的なエネルギーが大きい学生は、叱咤激励する必要はない。本人を観察して穴を見つけ、その時その時に必要な学習を指示し、適切な課題を与えれば良い。そして、常に自然な方向に考えることを心がけさせる。

howではなくwhatに注意を向けるように注意すると、最初は少しだけ戸惑いを見せるが、やがて水を得た魚のように自発性を発揮し、成長して行く。私は添削指導によって、このような学生を、数多く見出してきた。

 

N君と同様に、A君は数学的な理解力と計算力が確かであった。そして理系の学生には珍しく国語力・英語力が優れていた。A君には家庭教師のアルバイトをいくつか紹介したが、最も喜ばれたのは国語の指導である。哲学を好み、英語の読解は全く誤訳がなく、完璧であった。 

 

彼の哲学好きや言語的能力は、学習の助けになっていたが、妨げになっていた面もあったかもしれない。

 

物理学はもともと、ギリシャ時代には自然哲学と呼ばれ、実証科学としての性格が弱く、むしろ思弁科学であった。今でも、「科学哲学」を専攻する人々の多くは、物理学をそのように誤解しているふしがある。

 

これは、しばしば若い人を道に迷わせる。若い時にそのような哲学書に接して影響を受けると、思考が実体から離れ、空転を始める。地道な勉強から離れて空論を振り回し、研究者の道から逸れて行った人々を何人も見てきた。A君にはその兆候が少し感じられた。これは早めに芽を摘み取っておく必要がある。

 

 

指導教官との類似点による困難

 

私は哲学にはあまり興味が無いが、物理屋のタイプとして、彼は私に似ていた。学生は良くも悪くも教師の影響を受けてしまうので、それは私にとって、指導上の課題と言えた。

こう申し上げては大変に不遜であるが、私自信も、御指導いただいた先生との類似点があったと思う。そして先生も、その危険性に気付いておられた。

 

 

A君は、私が拘りをもって指導する部分の吸収は早く、修士課程の終りごろは、下降気味だった私の計算力を上回り始めた。物理的な理解も、まずまずであった。

しかし私と同様、コンピュータによる数値計算を好まず、また哲学的な性向から、実験と直結する具体的な研究より、抽象的で原理的な問題に関心を持つ傾向があった。 

 

私が数値計算を多用しなかったのは、私自身の好みもあるが、かつては、コンピュータワークに頼りきった研究は、高い評価が得られない、という事情も背景にあった。

今は背景が異なる。今の世代にとって、それは基本的な研究手段の一つであり、必ず身に付けなければならないものである。そして、思考の空転を防ぐには、具体的な仕事、とくに数値計算は最適である。

 

しかし、自分が身を入れて来なかったことについて、重要性を言葉で強調しても、説得力が伴わない。

そこで卒業研究は、最初に読むべき数編の論文と、研究のターゲットを示し、あとは自分でやらせた。彼が得意とする紙と鉛筆の計算力が生きるテーマだが、最後は実験と比較し、多少の数値計算が必要となるように仕組んだ。 

 

 

大学院の修士に進んでからは、より原理的な問題にチャレンジさせたが、手法として、かなり巧妙な数学をベースとした大規模な数値計算を試みさせた。

 

若い時に数値的な仕事を続けさせると、思考の空転は防げるが、逆に思考を停止させる危険も生じる。バランスが重要である。この計算には理論的な背景の勉強が大きな部分を占めたので、その点の心配は少なかった。

  

 

この段階では、まず研究室の計算環境をヴァージョンアップする必要があった。そこで、私は彼に空っぽのワークステーションを与え、OSからはじまり、科学計算用のコンパイラをインストールして、さらにフリーソフトのみによって、計算からグラフの表示まで、一連の流れを構築する仕事を任せた。 

  

予想されたことではあるが、彼はこの「学問として本質的でない」作業を嫌がった。

彼が従順に従ったのは、プログラミングまでである。

 

「計算機の管理ができない理論屋には、永久に仕事は無いぞ!」と私は言って、無理やりやらせた。

 

この言葉に偽りは無かったが、これは教育ではなく、ほぼ性格の矯正と言える。彼には必要なことと判断した。

 

彼に叱責を与えたのは、この一度だけであるが・・・

 

中編に続く)   

 

 

 

英国の鳥(2)

 

 

前回の記事で、英国では人々が鳥を大切にするため、鳥が人を怖れない、ということを書いた。英国の鳥はその他の点でも、行動様式がかなり変っている。

 

 

 

鳥の交通事故

 

動物が交通事故の犠牲になることは、どこの国でもある。

 

日本では猫が犠牲になることが多いが、英国で路上に猫の死骸を見たことは記憶にない。

 

代わって、道路に累々と屍を連ねるのは、野兎と鳥である。兎は、季節によってはかなりおびただしい数になる。郊外の自動車道路を運転していて、視界の中に死骸が数体以上、と言う日もあり、絶えずよけながらの走行であった。

 

そして、鳥の犠牲もかなりの数にのぼる。

日本では珍しいと思うが、街中でその瞬間を目撃することがしばしばあった。人間を怖れない英国の鳥は、しばしば街中でも、頻繁に低空飛行する。そして、車に当てられてしまうのである。

 

動体視力が弱いのか、動いている物にふらふらと平気で近づく。私の車にぶつかってきたこともあった。横から急に、空中に現れるので、避けようがない。徐行している車でも、接触すれば失神する。

 

車の速度の違いも原因の一つであるが、私は鳥に俊敏さが欠けているのが、最も大きな原因ではないかと思っている。 

別の記事で、英国では虫の動きが遅いと書いたが、気温が低いと、動物は動きが緩慢になる。そもそも餌になる虫がのろければ、鳥も俊敏さを必要としない。

 

 

 

メタボスズメの秋

 

行動様式が変わっているという点では、スズメは最も面白い。

 

英国にもスズメがいる。数は日本より少ないが、見かけも鳴き声も同じであり、間違いなくスズメである。

 

いわゆる群雀(むらすずめ)は見た記憶が無い。単独行動である。日本のスズメは米を良く食べるので田に集まり、群れるのかもしれない。

英国でコメはあまり栽培されていないが、彼らは何を食しているのか?

 

 

やはり主食は虫であろう。

秋が深まってくると、彼らは食べまくる。越冬のため、食い溜めする。鈍重でも虫は簡単に捕食できるので、食料には事欠かない。

 

そして、晩秋になると、木の根の付近に、動けなくなった雀が転がっているのをよく見かける。

信じられないほど、丸々と太っている。太りすぎている上に、腹が一杯なのであろう。大変苦しそうである。

 

近づくとさすがに、逃げなければと思うのか、羽をばたつかせてもがくが・・・腹を上にして、仰向けになったまま、体の向きを変えることすらできない。

たとえ体勢を立て直して羽ばたいても、この体重では離陸できないであろう・・・

 

最初にこの光景を見た時は、怪我をしているのかと思い、拾い上げて調べてみたが、もはや逃げることは諦め、されるがままであった。

木の根の付近で良く見かけたのは、樹液を食料とする虫を食べていたのかもしれない。

 

 

こんな間抜けな鳥に食われる虫も、虫である。

 

何しろ、季節によっては、口を開けていれば勝手に餌が入ってくるほどである。交通事故さえなければ、英国は鳥の天国である。

 

 

(続く)

 

 

英国の鳥(1)

 

 人間を怖れない鳥

 

英国を初めて訪れた日本人が必ず驚くことの一つは、鳥が、人を殆ど怖れないことである。日本人の集まりに新顔が加わると、一度はこの話になる。

 

日本の鳥がすぐ逃げるのは、人がやたらに鳥を追い廻して、警戒心を抱かせてしまったのだ、と考える人が多いが、果たしてどうであろうか。

 

スペイン人が集まりに参加した時、ヨーロッパでの様子を聞いてみたところ、スペインの人々は鳥を見つけると、すぐ捕まえて食べてしまうので、そもそも鳥を殆ど見かけない・・・という答が返ってきた。

 

一方、英国人は確かに鳥を大切にする。

バード・ウォッチングを趣味にする人は多く、自宅の庭に小鳥が舞い降りると、すかさず、用意していたカメラや双眼鏡を手にして、熱心に見入る。

 

庭木には巣箱を用意し、ツバメが軒下に巣を作れば歓迎して、ヒナが巣立つまで見守る。

近づいて追い回したり、ましてや捕獲して食料にする人は、少なくとも私の知る範囲では(近所の子供たちも含めて)いなかった。

 

 

ブラックバード

 

誰もが「かわいい」と称賛する代表的な鳥は、ブラックバードである。鳥類に詳しい日本人の生態学研究者が、ツグミの一種である、と言っていたが、見かけはあまりにも違う。名前のとおり、カラスを小さくしたような真っ黒な鳥で、ハトより少し小柄で、スリムである。

 

なぜ、このような何の変哲もない鳥を、彼らが絶賛するのか、良く理解できなかった。人々は、色の綺麗な鳥にはあまり関心がないのかもしれない。

 

 

関係ないかもしれないが、英国人は黒が好きなのか・・・と思ったことがある。

 

オトメのピアノを買うことを考えて、ロンドンのピアノショップを下見した時のことである。木目調の日本製グランドピアノが置いてあった。ややワインカラーが入った、半透明ブラウンの美しい仕上がりである。私達にはとても手が出ない値段であったが、しかし、同じ機種の黒塗りより、20万円ほど価格が低いことに驚いた。

 

木目を出す塗装は高度な職人技で、外周の板も、節などが入らない、見た目の良い部位を使う。一般には(少なくとも日本では)かなり値段が高いはずである。

 

店主に理由を聞くと、驚いたような顔をしてこう言った。

 

「え?・・・当然じゃないですか? 誰でも黒を欲しがりますよ。見てごらんなさい、黒は美しいでしょう? 圧倒的に、こっちの方がインテリア性が優れているでしょう?」

 

 

朝の挨拶1

 

このブラックバードであるが、大切にされているせいか、いたるところで見かける。

 

下宿暮らしの間は、最初のうち大学まで歩いて出勤していたが、道沿いの民家の板塀に、いつも止まっていた。

 

互に見える距離になると、(日本ならここで飛び去るところであるが)こちらをじっと見ている。

 

こちらもじっと見つめる。それでも逃げない。

 

このような時の鳥の姿は、まことに人間臭い。羽をすぼめて止まっていると、オーバーコートのポケットに手を突っ込んで、やや寒そうに立っている感じである。

 

ついに距離は、手を伸ばせば届くほどになったが、それでも互いに目をそらさず、じっと見つめ合う。

 

そして、私はそのまま通り過ぎ、遠ざかった。

 

ブラックバードの人気の理由は、こんなところかもしれない。

 

 

 朝の挨拶2

 

間もなく、私は自転車で通勤するようになった。

キャンパスの裏口から入り、広い芝生を突っ切る。皆が同じルートを使うので、芝生には幅20cm程の轍の自転車道が出来ていた。そこを走らないと、なかなか動きづらい。

 

ある朝、その細い自転車道の中央に、鳥が一羽、道に直角な方向を向いて静止し、瞑想にふけっていた。これもブラックバードだったと思うが、もう少し大きい、濃いグリーンの鳥だったかもしれない。

 

ある程度のスピードで近づいて行けば、逃げるだろうと予想していたが、鳥は真横を向いたまま、自転車には目もくれず、逃げる気配はない。

 

私は、ぎりぎりになった時に、彼がどのような行動をとるのか知りたくなり、減速せずに、そのまま走行を続けた。

 

ついに互いの距離が1mを切り、これは本当に轢いてしまう・・・と思った瞬間、鳥はちらと私の方に目を遣り、面倒臭そうにツン、ツンと2歩、前に進んで道を空けた。

 

そしてそれ以上は微動だにせず、自分の瞑想を続けた。