浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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夕日の情景

一日のうちでどの時間帯が最も好きか、と問われると、早朝と答える人が多いのではないだろうか。私も最近は早起きして、朝のすがすがしさを味わうことが多くなった。しかし私は昔から、夕刻近くの、まだ明るさが残るひと時が、最も好きである。人々が仕事を終えて家路に着くこの短い時間帯は、すべてが美しく色付き、人々の幸福が凝縮されているように見える。

 

 

 

若い頃のある日、私はフランスのある地方都市の、バスの終着駅に降り立った。どのような目的でバスに乗ったのか、どこの街だったのか、すっかり忘れてしまったが、まだ日が長い欧州の夏の終わりのことだった。最終バスであったが、街はまだ明るかった。運転手はやや気弱な面持ちの、私とほぼ同年齢と思われる典型的なフランス風の男で、丁寧な運転で乳母車の母親や老人の乗降に気を使い、私もゆったりとした気分で田舎町の風景を楽しめた。

 

終着のターミナルに着くと、そこには多くの家族が迎えに集まっていた。夫の帰りを待つ妻や子供、孫を待つ老人・・・乗客は家族の姿を認めると窓から身をのり出して手を振り、迎える人々も待ち切れずに出口に集まり、バスが停車すると、それぞれの再会を楽しんだ。フランス人は人前では無口である。彼らは静かに抱擁し、目で会話して多くを語らない。夕方の静かな風景であった。

 

バスが停車する前に、4,5歳の少女を連れた若い母親が、車窓から見えた。静かな群衆の中でも、この親子はとりわけ静かであった。時折、無言で顔を見合わせ、互いに微笑むのみである。待ち人を探す様子もなく、人混みから少し離れて、やや遠くからバスに目を遣っている。私は、母親の清楚な美しさと子供の可愛らしさに惹かれ、この2人が誰を待っているのか知りたくなり、そっと見まわした。バスの中には、この親子に手を振っている様子の乗客は見当たらなかった。やがて私もバスから降り、すべての乗客は迎えの人々と共に立ち去った。残っているのは、私とこの親子のみとなったが、それでも2人の様子は変わらなかった。ストーカーの後ろめたさを感じつつも、私は気になったので、人待ちを装いながら、少し離れてこの2人をしばらく観察した。

 

まだ誰か乗っているのかとも思ったが、バスはそのまま車庫へと向かった。そして整列駐車すると、運転手はいくばくかの仕事道具を抱えてバスから降りた。と、こちらに目を遣り、はにかむような表情を見せた。ようやく私は、親子が待っていたのは、この運転手であったと気が付いた。

 

この日の最後の仕事を終えた彼は、道具を所定の場所に置くと、ゆっくりと家族のもとにやって来た。そして妻とキスを交わし、子供を軽く抱き上げて頬擦りすると、暫くの間、私の位置からは聞こえない小声で会話した。

 

運転手は彼女を地上に降ろすと、家族は子供を中心に手をつなぎ、ターミナルからまっすぐに伸びる田舎道を、ゆっくりと歩き始めた。3人の後姿は夕日を浴びて黄金色に染まり、時間をかけてゆっくりと小さくなって行った。私は、幸福を絵に描いたような、この無言劇の見事なラストシーンから、いつまでも目を離すことができず、置いてきた妻と息子に会いたいと、心から思った。