浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

~記事へのコメントは歓迎です~

インディアン ウソつかない、白人 ウソつく(2)

 

 (1)から続く

 

 

昔のアメリカ製ホームコメディの、冒頭のシーンを思い出した。

 

妻が新発売の、家庭用嘘発見器を買ってきた。夫が自信満々に、これに挑戦する。

 

最初は好調であったが、途中で、上司から電話がかかってくる。職場でちょっとした不都合があったらしい。電話口で軽く言い訳をすると・・・ピーッと音が鳴り響く。

 

夫は焦って早口になり、体に装着した器具を外そうとするが、慌てているので、なかなか外れない。一方、上司は重ねて色々と尋ねてくる。 答えると、すかさず音が鳴る。

 

焦るほどに言い訳はお粗末になり、音の頻度も増す。もはや、正直な言葉は一つも発していない状況である。妻は次第にあきれ顔になり、目には軽蔑の色が浮かび始めた。何を言っても音が鳴り止まない状況に、夫はたまらず、「私は妻を愛している~!!」と叫ぶ・・・

 

すると、音がピタリと止み、妻も「ふん・・・まあ・・・いいか・・・」と機嫌を取り戻すが・・・上司は何事が起こったかわからず、電話口の向こうで目を白黒させている・・・

 

多少のウソは愛嬌のうちかもしれない。人がウソをつく動物であることを前提に、これを許容するから、このような笑いが成立する。

 

 

・・・が、今日の本題は、これではなかった。前回の記事に続いて、このようなことばかり書いていると、私が嘘を肯定していると考えられたら困る。逆のことを書こうと思ったのである。とくに自然科学を志す若い方々のために、少し補足したい。

 

私生活を嘘で満たしてきた私が言うのも、大変おこがましいが、自然科学を志すのであれば、真実と異なることを語る習慣を身に付けない方が良い。嘘も方便、というのも習慣に結びつくので、要注意である。何事も誠意をもって説明するに勝るものはない。

 

 上に紹介したような、他人に言い訳けする程度のウソは、あまり実害がない。自分で自覚しているからである。自分に嘘をつく習慣がつくと怖い。

 

 米国の人から聞いた逸話であるが、日曜日の教会に集まった人々に対して、牧師が「今まで自分が嘘をついたことがないと思う方は、祭壇の上に上ってください」と言った。最初は誰もが躊躇していたが、そのうち一人、二人・・・と祭壇に上がり始め、遂には全員が上ってしまった。皆、きらきらと目を輝かせ、一点の曇りもない、善良さに満ちた表情をしている。牧師は「皆さん・・・それが嘘というものです・・・」と諭した。

  

人前では分かったふりをして、後で必死に勉強し、次の日には、昔から分かっていたような顔をしている・・・それで良い。しかし、その努力を怠ると、次第に自覚が薄れ、自分が分かっている事、いない事の区別が曖昧になる。最後は自分をも騙し、何事も理解不能になる・・・何年か前、そのような人の起こした論文不正事件が、世界の科学界を騒がせた。

 

  

「正直」には、ときどき「馬鹿」という冠詞がつけられるが、実際のところ、研究にはバカになる覚悟も必要なように思う。馬鹿正直に計算し、あるいは馬鹿正直に測定し、辻褄が合わなければ、最初から再点検し、必要があれば勉強からやり直し、またゼロからスタートする・・・目的を達成するまで、これを際限なく続ける馬鹿力が必要である。帳尻合わせをしても、何も解決しない。自分が何を理解できていなかったか特定できた場合に、多くの問題は解決する。その体験の積み重ねが重要である。

 

 私が尊敬する、ノーベル賞の候補にもなられた、ある偉大な先生の話であるが・・・大学紛争の時代に、活動家学生から「専門バカ」と罵られた。先生はそのとき「名誉なことだ」と呟かれたそうである。

 

(続く)