浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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インディアン ウソつかない、白人 ウソつく(3)

(2)から続く

 

研究の話から一般論に戻ろう。

 

私の観察では、目的を持って嘘をつく者は、自分の優秀さを確信しているようだ。確かに、仮定法の思考回路を高速回転させることが出来なければ、上手な嘘はつけないであろう。

 

嘘がいずれ知れることは、承知の上である。知れるまでの時間差で、自分の目的が達成できるか見切っているのである。こうなると、愛嬌にはならない。一部の人々に対して信用を失うことも当然ある。これも想定内である。相手の重要度を勘案し、得失差で自分が得をするか判断する。経験を重ねており、成功率は高い。まさに、インディアンを騙す白人である。

 

社会的な信用を保ちながら、目的を達成し続けるのは、なかなか離れ業である。しかし、それをやり遂げながらも、彼らは幸福度が高い人生を送っているようには、必ずしも見えない。

それはまず、人々との距離感の微妙な差として表れる。そして、人々が自然に持つ様々なものを、欠いている事を感じさせる。

  

幸運の女神という言葉があるが、運を司る神を女性としたのは、ヨーロッパ人の知恵と感心する。

人の本質を見抜くのは女の天性である。ましてや「神」となれば、内面のすべてを見通す。運命の女神という概念は、そのような全知全能の女性をイメージし、彼女が顔をしかめるような行為を慎むように、という教訓であろう。それが幸福を導くという経験則である。

勇敢で潔い男を好み、一途で健気な女を応援する・・・悲しい結末に終わっても、彼等の魂を救い、天国へと導く・・・初回の記事に紹介したような私の行いは、NGである。女神は女性の寛大さを持つが、関心を失うと、2度と振り向かない。

 

女神は幸運をもたらすだけで、罰することも、行動を妨げることもしない。したがって、彼女の関心を失っても、自らの才覚で得る物は手にできる。しかし、それだけである。

人生において真に貴重なものは、得るのではなく、与えられることを、経験則は教えているように思う。思い返せば、真に貴重なものは、自ら得たと思えても、可能な位置に居合わせた幸運があり、そこに導いた見えざる手があった。それは人知の及ばない、多くの人々を介する、奇跡的な相互作用の連鎖である。 

連鎖の輪のすべてにおいて、女神の目はユビキタスであるが、彼女が顔をしかめる行為を繰り返す者の多くは、すでに彼女の視界から遠ざかっている。彼らは無意識に女神の視線を避け、自らを連鎖の外に置く。かくして、彼らは、与えられることを自ら辞する。

 

人間社会は、そのように出来ている。