浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

~記事へのコメントは歓迎です~

子供教育の注意事項1

 はじめに

 

いきなり、生意気なタイトルを書いてしまったが・・・

 

私は子供の教育の専門家ではない。

自分自身の子供の教育についても、決して理想的だったと思っている訳ではない。 

自分自身を教育者だとも思っていなかった。

 

単に物理学を継承する人間でありたいと思っていた。これは大学人として間違ってはいない、と今でも考えているが、そのような者に教育を論じる資格はないであろうとは思う。

 

ただ私にも、幼児期以来の自分を振り返ることはできる。また多くの学生を教えて来て、初等教育、あるいは中等教育で注意すべき点に、幾つか気付いてきた。それらは、読者の方々の参考になるかもしれないので、忘れないうちに(ボケないうちに)書き留めておこうと思ったのである。

 

もとより私は道徳家ではなく、どちらかと言えば行儀の悪い人間なので、「人間教育」を偉そうに語るつもりは毛頭ない。そのように見えてしまう事を書くかもしれないが、私の意図は全く異なる。

子供は(というより人間は)自分の頭をどう使っているのか・・・それに対して、親や教師は(あるいは自分自身は)どのように助けることができるのか・・・という、ごく身近なテーマを書きたいと思っている。

 

これらは子供の教育だけではなく、私自身のための覚書でもある。老人と言える年齢になった今でも、依然として多くの点が当てはまる。その意味では、タイトルから「子供」の文字は削除した方が良かったかもしれない。すべての年齢層に当てはまり、自分自身をも対象とするのであるから、「教育の」という文言も不要かもしれない。単に「注意事項」である。タイトルを「頭の取説」とでも読み替えて、読んでいただければ幸いである。このタイトルは、誰かがすでに使っていたような気がするが・・・

 

 

イメージと概念

 

人間は、何かをやろうとするとき、必ず事前に、その途中の過程や結果について、一定のイメージを形成している。これはほとんど無意識な行為であるが、多少なりともそれがなければ、何も行動を起こすことができない。そもそも、何もイメージを持っていないということは、それ以前にモーティべーションが無いことを意味するので、行動を起こすはずがない。イメージが鮮明であれば、行動は淀みなく、能率が良い。

 

幼児は別である。彼等はまだ経験が無いので、過去の経験に照らし合わせて類推を働かせ、イメージを形成することができない。彼らの行動は、専ら経験を蓄えるための探索であり、好奇心だけをモーティべーションとする、無鉄砲なものである。

 

この時期の教育については、私は何もコメントすることができない。私自身の場合は、子供が熱いものに触ったときに「熱かったね」「熱い、熱い」などと、経験に合わせて言葉を教えてやった程度である。

 

 

言葉を話し始める頃になると、子供は自分のイメージをかなり持っているはずである。言葉は、自分のイメージを人に伝えるためのものである。しかしながら、子供は抽象的なイメージを持てないので、具体的な経験から構成できるイメージに限られる。

 

物語などを読んで、現実世界でないことを想像できるようになると、彼らの思考は大人の知的活動に近づいてくる。経験を積むにつれて、想像は次第に、抽象する能力を触発して行く。例えば買い物をする経験を重ね、自分の欲する物の値段を知り、あるいは推し量ることにより、子供は抽象的な「価値」という概念を体得する。体験と想像により作られる抽象的なイメージは、概念と呼ばれる。

 

  

概念の定義と役割

 

概念について、「体験と想像により作られる抽象的なイメージ」などと、怪しげなことを書いてしまったが・・・

 

概念を言葉で定義するのは難しい。辞書によれば、この言葉に対応する英語は「コンセプト」である。この英語は、今では日本語になっている感があるが、私は日本の人々が、この言葉をどのような意味で使用しているのか、今一つわからない。ドイツ語で対応する単語は「begriff」である。

 

それぞれの言語におけるこの3つの単語の意味するところは、少しずつ違うような気がする。日本語の「概念」は(もともとは中国語かもしれないが)、文字から解釈すると「大体こんな感じ」という曖昧な認識、と言えば良いであろうか。

 

英語のコンセプト(concept)は、もともとconceiveという動詞から来ている。言葉のすべてのルーツは動詞であるらしいが、conceiveは「孕む、妊娠する」という自動詞である。つまり、英語の「コンセプト」は、心の中に芽生え、(時間をかけて)育ってきたものである。

 

ドイツ語のbegriffの元になる動詞は、greifenであろう。これは英語のgrip、すなわち「掴む」「握る」という他動詞である。つまりドイツ語のbegriffは、感覚的に掴んだ「これだ」という感触なのかもしれない。

  

 

私が物理屋として「概念」というときは、主にconceptの意味である。つまり、慎重に、時間をかけて育まなければいけないものである。しかし、日常的な文脈においては、この言葉を、上に紹介したような軽い意味で使うこともある。今後の記事では、適宜解釈して欲しい。

 

 

定義が曖昧なままで話を続けては申し訳ないが、今後は幾つかの事例で示す予定である。私は、教育は概念を共有するところから始まると考えている。考察する対象が自然であれ社会であれ、重要なのは断片的な知識ではない。イメージ化された全体像である。これは様々な概念で組み立てられている。教える者と教わる者が、個々の概念を共有しなければ、情報の伝達が不可能であり、教育は成立しない。これは初等教育を含めた、すべてレベルの教育に当てはまる。

 

(続く)