浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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子供教育の注意事項4 - 想像力の作用と反作用

ふたたび分数計算の例

 

私がタフな教師として学生に知られ始めていた頃のことである。ある日の昼休み、私は学外の喫茶店で昼食をとり、食後のコーヒーを待っていた。そのとき、ふと店に置いてあるコミック単行本の牧歌的なタイトルに惹かれ、手を伸ばした。

 

続き物ではなく、一回ごとの読み切りである。主人公は、気は良いがあまり成績がよろしくない、小学校高学年の男の子で、同じクラスにいる優等生の女の子と仲が良い。

 

男の子は分数計算が出来ず、いつも1/2+2/3=3/5、という計算をやってしまう。分母同士、分子同士の足し算をしているのである。担任の教師は手を焼き、彼に教えてやるように、女の子に協力を依頼する。

 

依頼を受けた彼女は、しょんぼりする彼を自宅に連れて帰り、「あのさー、私が教える前にさ、アンタがなぜそう考えたのか、話してくれない?」と言うと・・・

 

男の子: 「だってさ、1/2っていうのは、リンゴ2個のうちの1個ってことだろ」

女の子: 「そりゃそうだわ」

男の子: 「それでさ、2/3っていうのは、リンゴ3個のうちの2個だろ」

女の子: 「・・・それで?」

男の子: 「だったらさ、合わせれば、リンゴ5個のうちの3個じゃないか」

女の子: 「・・・え?! あれ?・・・なんか、ナットク・・・

      ・・・おっかしいな~・・・どこで間違えてんのかな~・・・」

 

パンチの効いた痛快な風刺である。女の子は自分が何も理解していなかったことを思い知らされ、すっかり自信を失くして、攻守ところを変えてしまった。この笑い話が多くの小学校に共通するなら、文部省を狼狽させるほどである。

 

算数の教科書を執筆する先生方は、分数が難しいということを、よくよく理解した上で書いて欲しい。何よりも、正しい概念を、現場の先生方に浸透させる必要がある。

 

私が喫茶店で漫画を見て大笑いしていた、というニュースは、瞬く間に学科中に広まり、私はしばらくの期間、学生に睨みが効かなくなった。

 

 

想像力の作用

 

人は想像する動物である。情報が不足していると感じると、本能的に想像で補おうとする。これは人間の最大の能力の一つである。

 

例えば、「忖度」は想像力の産物である。相手が何も言わなくても(つまり何も情報を与えなくても)それを想像で補い、相手が必要としていることを察知するのである。忖度はあまり印象が良くないので、「思いやりの心」と訂正しよう。

 

新しいことを勉強するとき、私はありったけの知識を総動員し、さらに想像力をフルに働かせている。これは学生時代から、ずっとそうであった。学習者は誰でも同じであろう。

 

新しいことを理解するために必要な基本情報は多岐にわたり、私は通常、これらを幾つも欠いている。論文や教科書には、初習者が理解するために必要なことが、すべて書いてあるわけではない。多くの予備知識を補給しなければならない。これには相当に時間がかかる。そこで、不案内な分野の文献を読むとき、私はとりあえず、想像力を頼りに読み進む。

 

もちろん、想像は想像であり、これを前提に不用意に前に進むと、痛い目に合う。少し進んでは、自分の想像で辻褄が合っているか、慎重に吟味しながら、ゆっくり進む。確認するには通常、それなりの計算を必要とするので、ゆっくりとしか進めない。辻褄が合わない点が出てくれば、もう一度想像からやり直す。

 

もちろん、必要なことはきちんと勉強することが基本であり、それも並行して進めるが、それだけの時間が取れないことも多い。とりあえず概観を掴むために、想像力は重要な助けとなる。絶え間ない想像と確認の試行錯誤は、非常な集中力と気力を要する。私にとって、新しいことを勉強することは、最も脳に負担のかかる作業である。難行苦行を乗り越えて、最初の20ページほどを通過すれば、学術書は順調に読み進めることができる。

 

 

想像力の反作用

 

想像したことは、想像であることを自覚し、機会あるごとに確認して、確実になった知識のみを残さなければならない。確認できていない事項は、つねに心のメモ帳に「留保付き」のタグを付けておく。私のメモ帳は今でもタグだらけである。

 

タグを付けない「想像のやりっ放し」は、非常に危険である。いつの間にか、それが自分の頭の中で事実と化してしまうからだ。全ての誤解は、想像を事実と思い込むことから始まると言っても良い。 「思いやり」の場合は、背後に善意があるので、たとえ誤解であっても滅多に害を及ぼさないが・・・

 

「お前はこう言ったじゃないか!」

「俺はそんなことは言ってない!」 

 

というのは、争いの典型的なパターンである。「こう言った」という部分に想像が入っている。

 

学習上の誤解も、ほとんどがこのパターンと言える。上の会話は(口調は別とすれば)質問に来た学生と教師に、そのまま当てはまる。教師の代わりに書物の場合もある(書物は反論する口を持たないが)。単純に「分からなかった」といって質問に来る学生も、なぜ分からなかったかを突き詰めていくと、最後はこのパターンに帰着する。

 

理解できかっただけならまだ良いが、厄介なことに、人間はそこを埋めるために想像を付け加える。上に紹介した分数についての少年の解釈は、想像が見事な合理性を有していたため、優等生の彼女は対抗できなかった。私は以前の記事で、学生に物理量の定義を書かせると、笑い話の傑作集になると書いたが、まさにこのことである。

 

必要な情報を欠く原因は、最初は単純な不勉強である。名著とは到底言えない書籍、あるいは力不足の教師との不運な出会いもあるかもしれないが、これらは自力で修復するしかない。理解不足の段階で止まれば影響は最小限で抑えられるが、そこで生じた穴を誤った想像で埋めると、誤解は次の誤解を生み、ネズミ算式に増殖する。

 

学生同士の「交流」も、正しい話が伝われば大きなプラスの相乗効果を生むが、そうでない場合は、誤解の増殖を著しく加速する。話に尾ひれがついて悪い噂が広まるのと同じである。

  

 

想像は、時に理解を助け、時に理解を妨げる。

 

(続く)