浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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子供教育の注意事項5 ー 感動の重要性

やや大袈裟な言い方かもしれないが、何か新しいことを理解するということは、多かれ少なかれ、何らかの感動を伴うように思う。私の場合、記憶にある範囲では、時計の読み方が最初の方である。

 

自然科学や数学の知識については、いつ、どこで最初に学んだか、大抵は覚えている。少数ではあるが、その時に読んだ本のページのシミまで、おぼろげに記憶がある。

 

授業中、学生に「これはすでに習っていますか?」と尋ねると、ほとんどが「どこかでやったと思いますが・・・」と答える。どの授業でやったか覚えていない。当然、知識も理解も曖昧である。習ったかどうかすら定かでない者も多いので、やり直さなければならない。

 

学びは最初の出会いが肝心である。やや気恥ずかしい表現だが、恋愛に例えられるだろう。最初に強い印象があれば、記憶も理解も確かになる。英語で learn by heart という表現があるが、まさにそのようなものである(この表現は「暗誦する」「記憶する」などと訳されるが、本来そのような意味ではない)。

何となく通り過ぎると、これができない。さらに、次に同じことを教わっても、心が新鮮さを失って「またか」と無意識に拒否するため、再び曖昧なままに終わる。

 

 

 

中学2年生のとき、素晴らしい数学の先生に幾何学を教えて頂いた。「幾何学」ではなく図形と呼ばれ、文部省検定済の普通の教科書に沿っていたが、本格的な幾何学に近い、格調の高い教え方だった。

 

大正生まれの先生は、片仮名を使って、黒板に定理と証明を書いた。練習問題の解答も、全く同様の書き方であった。

 

まず、「1.仮定」 と書き、問題や定理の前提条件を、箇条書きにする。

 

次に、「2.結論」 と書き、証明すべき内容を書く。複数あれば箇条書きにする。

 

最後に「3.証明」 と書き、

 

   △ABCノ頂点Aカラ 底辺BCニ垂線ヲ降ロシ、ソノ足ヲPトスル・・・

 

などと証明を綴る。

 

 

漢文の素読のような、古風で簡潔な文体から、日本の伝統と西欧科学の不思議な融合が、香りのように伝わってきた。それが論理の展開に揺るぎ無い安定感を与え、導かれる結論の意外さと美しさに、魅了された。

 

先生の語り方も絶妙であった。説明は遅くも速くもなく、説明と並行して漢文調の証明を板書する。無駄な言葉はひとつもない。一つ一つのステップで、どの定理を使ったか、どの条件を使ったかが示され、「そうだったな」と確認し、板書を写して心に確信が生まれた頃、次のステップに進む。

証明のどの段階においても、論理に寸分の隙もなく、疑いの余地はない。結論に、動かし難い巨大な岩のような重さが感じられた。

 

学んだことがこれほど自然に、体の中に染み込んで来るような感覚は、それまで味わったことが無かった(残念ながらそれ以後も無い)。この授業だけは、私はノートを見返すことなく、細部にわたり、心の中で正確に再現することができた。

 

家の物置を整理しているとき、亡くなった父親が学生時代に使った「秀才ノ幾何学」と題する、戦前に出版された演習書が出てきた。私にも出来そうな問題が幾つかあり、先生の片仮名書きのスタイルを真似して証明を試みた。時を経て継承されてきたものに対する畏敬の念も、感動を増す要因であったと思う。

 

それまでの自分の思考が、如何に緻密さを欠いていたかを知り、そして、世の中のことはすべて、合理的に理解できるに違いない、と確信するようになった。

 

 

私が幾何学を学んだ授業は、先生の最後の担当であった。先生は翌年の春、市内の他校に転任された。

 

年度の最後の朝礼で生徒に別れの挨拶をするため、檀に上られた先生は、何も語らず、穏やかな目で、暫くの間、生徒全員を見渡した。

 

一瞬、私と目が合った。 私はかすかに目礼した。

 

そして先生は、一言だけ「さようなら」と言って頭を下げ、壇を下りられた。