浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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子供教育の注意事項6 - what と how の混同

What の概念

 

英語の初級クラスで学ぶことの一つに、Who are you? とWhat are you?の違いがある。前者には自分の名前を、後者には自分の職業を答えなさい、と教えられる。

 

日本語で「あなたは誰?」と聞かれれば、当然、名前を答えるので、Who are you?は分かりやすい。難しいのはWhat are you? である。英語の授業では、What は日本語の「何」に対応すると教えられる。そうすると、「これは何ですか?」という問に対して、日本人は名称を答えるので、What are you?に対しては、自分の名前を答えてしまう。そのため、これは職業を聞いているのだ、と最初に教えられる。

 

この疑問文に相当する日本語表現は、あるだろうか?「あなたの仕事は何ですか?」なら意味が通じる。「あなたは何ですか?」では、何を聞いているのか分からない。

 

実際には、「これは何ですか?」という日本語も同様である。上に、日本人はこの問に名称を答えると書いたが、現実の会話において、誰もが知っている物を見せて「これは何ですか?」と聞くことは無い。あるとしても、日本語の初級クラスの授業くらいであろう。

 

この言葉が実際に使われるのは、今まで見たことも無い物が目の前に現れた時である。この場合に本当に必要な答えは名称ではない。「これは何ですか!?」と驚く外国人に「これはしめ縄です」とか「招き猫です」などと、名称だけ言ったのでは、失礼である。何のためのものか、解説しなければ答えにならない。

 

そう考えると、 What are you? が何を聞いているのか、少し分かりやすくなる。必ずしも職業を聞いている訳ではない。「あなたは何者であるか?」と聞いているのである。社会での役割や、(たとえ退職していても)何を専門とする人か・・・どのような人であるか、イメージできるような情報を求めている。

 

ちなみに、「あなたは何様ですか!?」というのは、むしろ Who are you ? である。

 

 

what が how に置き換わる日本の社会

 

人に何かを説明するときには、whatが重要である。相手が「何について」の話なのか、理解していなければならない。イメージを持たずに人の話を聞いても、理解できるものではない。とくに相手が子供の場合は、そのために必要な概念を有しているか、注意を払わなければならない。

 

教育の現場に限らず、社会生活においても、全体像を示さず、相手に、いきなり「どうやるか」など具体的な作業内容を話し始めることはNGである。しかしなぜか日本では、これをやる人がかなり多い。しばらくぶりに帰国して、私は大いにとまどった。

 

職場では、研究や教育以外にも雑用が色々とある。そのような場合に、同僚の話がさっぱり分からない。主語や目的語を省く日本語の勘が戻らないため、分かりにくいのかと思ったが、どうもそれだけではない。まず、何について話しているのか、わからないのである。相手を遮り、何の話か説明を求めても、得られる情報は僅かで、話は基本的に「どうやるか」に終始している。再度、「何を」するのか、と尋ねると、紳士的な人は、最初にもどり、同じ説明を丁寧に繰り返す。

 

「私が・・・をするので・・・○○さんが・・・それで浦島さんは・・・」というのは、本人としては「何をやるのか」を説明しているつもりのようだが、これは作業手順を示しているのであって、「どうやるか」の説明である。つまりwhatではなく、howである。目的や意義を示し、全体のイメージを与えなければ、「what?」に対する説明にはならない。

 

私の度重なる質問に機嫌を損ねたり、露骨に「こいつ、頭悪いな」という顔をする人もいる。その都度私は、子供の頃、学校で良く似た体験をしたことを思い出した。結局、大人しく手順を聞き、想像力を働かせるしかない。このような困難は、勝手の分からない異国の方が、よほど少なかった。

  

whatとhowの区別ができない人々は、他の国々では見たことがない。両者は概念的に全く異なるのである。もちろんどこの国でも、こちらが事情を知っていると思えば、具体的な手順を話し始める事も多いが、そのとき「What is it about?」と言えば、「Oh, sorry !」と言って、手際良く概略を説明してくれる。これは、受けてきた教育の差に関係しない。 

 

 

私の質問に渋い顔をする人が日本で多いのは、もともと what を気にかける人々が少ないからかもしれない。多くの人々は、自分の作業内容だけを知れば十分と考えるのであろうか。私の質問は、話を不要に長引かせる迷惑行為に映るようである(それ以外の理由も考えられるが、これについては別の記事に書こう)。

 

 

what を欠くとどうなるか

 

初等教育において学習困難に陥るのは、「何の話」かが解らずに、足が前に出ない子供たちである。このような児童に対しては、教える側は一度立ち止まり、やっていることの目的や背景を、根気よく説明することが肝要である。これをせずに無理に進ませると

 

(1)想像によって情報を補うことで切り抜ける

(2)自分に能力が無いと判断し、解らないまま放置する

(3)意味が分からないことをやるのに苦痛を感じ、勉強することをやめる

 

のいずれかになる。(2)と(3)は、教育関係者も深刻と捉えるが、(1)も危険を伴うことは以前に述べた。

 

私は(1)の態度が標準的と思っていたが、詳しく観察すると、想像する内容と量においては、個人差が非常に大きい。大多数の子供たちは、ほとんど想像はせず、とりあえず宿題や試験問題に対応できるように、やり方を覚える。これは、一見、教育が成功したかに見えるが、最も危険である。自分自身でも理解した気になり、やがて「何をやっているか」には興味を持たない生き方を身に付ける。ここで what を how にすり替える習慣が形成され、次の世代に受け継がれていく。

 

 

 

上の(2)や(3)の子供たちは、社会への適応能力が乏しいという傾向はあるかもしれないが、将来、高い能力を発揮する可能性のある人が珍しくない。これについては、また別の機会に述べたい。