浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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子供教育の注意事項7 - キョーツケ! 前へ倣い!

what と how、および what と why

 

前回の記事で、whatとhowの区別ができない、という点を問題にしたが、これには言語的な問題が関係している、と考える人々が多いかもしれない。

 

良く似た話で、howとwhyの区別の問題がある。日本語で「どうして?」という表現は、「なぜ?」という意味にも「どうやって?」という意味にも使われる。これは多くの人々が指摘しているが、もともと日本語では、howとwhyの区別が曖昧なのである。

 

私が問題視したのはwhyとhowではなく、whatとhowの区別である。実はwhatとhowの区別が曖昧になるのは、もともとhowとwhyの区別が曖昧なところに、whatとwhyの繋がりが深い状況が重なるためと、私は考えている。

 

「・・・をしなさい」と言われて子供が「どうして?」と聞くのは、理由を聞いているように見えるが、目的が分からない場合もある。この場合は、「何をするの?」と聞いているのとさして変わらない。「右手を高く上げなさい」と言われて「どうして?」と聞くのは、「これから何をするの?」と聞いているのである。

 

 

一般に日本の社会では(特に学校では)理由を尋ねると、反抗的と見做されることが多い。「・・・をしなさい」と言われた時に「どうして?」と聞くと、「言うことをききなさい」と叱られる。

 

子供が理由を尋ねると、なぜ反抗的と見做す教師や親が多いのか?

 

例えば子供がしたいことを大人が禁ずるには、それなりの理由があるが、その理由を話しても、子供が納得しないことが予想される。実際に子供が薄々、理由を分かっていて、反抗している場合もあるだろう。しかし、禁じないわけにはいかない・・・子供を育てていれば、そのような場面は無数にある。

 

そのため親や教師は、子供がまず無条件に従う習慣を身に付けるように仕向ける。それもある程度は必要かもしれないが、大人が条件反射的にすべてを「どうして?=反抗」という図式で捉えてはいけない。子供が理由を聞いているのか、何をするかを聞いているのか、あるいは反抗しているのか・・・注意深く見分ける必要がある。

 

従う習慣を身に付けさせようとして、禁止のための禁止になってはいけないのである。実際に、細かい校則をはじめとして、日本の教育現場では、禁止のための禁止、強制のための強制と思われるケースがかなりある。

 

 

 

小学校の朝礼

 

帰国してカメ吉が日本の小学校に通うようになったが、最初の授業参観の際、私とオトメは恐ろしい光景を目にした。学校の校庭で、カメ吉が「キョーツケ! 前へ倣い!」をやらされていたのである。

 

私とオトメは顔が青ざめた。カメは両親の前に惨めな姿をさらし、屈辱に泣きべそをかいていた。

しまった・・・日本の学校はこういうところだった・・・戦前の軍事教練のようなことを・・・まだやっていたのか・・・

 

カメに申し訳ない気持ちで一杯になった。海外で研究を続ける選択肢もあったのに、帰国したことを後悔した。私は怒りが込み上げてきた。「やめろー! 私の息子に触れるな! 何をさせる!?」と叫びたかった。

 

日本の多くの人々には、のどかな学校行事のように見える朝礼であるが、この社会から離れていた私達には、心が凍る光景であった。私は歴史には詳しくないが、「キョーツケ! 前へ倣い!」は戦前の軍国主義の時代に始まったのではないかと思っている。少なくとも、この時代に、将来の徴兵に備えた予備訓練として、重要であったに違いない。

 

それを、なぜ今でも続けているのか?子供たちが「どうして?」と聞いたら、教師は何と説明するつもりか?「言うとおりにしなさい!」と叱りつけるのか?カメ吉の泣き面を見れば、そうとしか思えない・・・

 

見事に整列することに意義があるとは、到底思えない。私の考え得る唯一の合理的な解釈は、子供たちに無条件に従う習慣をつけさせる、強制のための強制である。しかし殆どの教員は、問い詰めればこれを否定するであろう。協調性を養う、などと苦しい言い訳をするかもしれない(そのようなことで協調性が養われるはずがないが)。

 

実は私自身も、上の解釈を強く信じているわけではない。より当たっている、と私が思う(非合理的な)解釈は、教員は何のためにやっているのか、考えていないということである。もはや意味が無くなった行為を、半世紀近くも、習慣として続けて来ただけである。行為の目的であったwhatが無くなり、howだけが残った。前に倣うのは、真直ぐに整列するためのhowであるが、何のために整列するかは、誰も考えない・・・

 

外国の人々は、そのような馬鹿げた解釈は信じないであろう。誰の頭にも思い浮ぶのは、私が最初に述べた合理的な解釈の方である。当時、日本の経済力に脅威と興味を感じていたヨーロッパの各国は、日本の教育水準の高さに注目し、学校教育の現場をたびたび紹介していたが、これは彼らがどうしても納得できないものの一つであった。

 

中高生に黒い詰襟の学生服を着せ、整列の朝礼を行い、部活をはじめとして、あらゆる集団内で同調圧力をかけ合う日本の社会は、彼等の目にはどのように映っているか?

テレビで放映される学校の制服集団は、異様な光景である。率直に述べるが、国民全員に人民服を着せ、毛沢東語録を暗唱させていた四人組時代の中国や、集団演技に人々を強制動員する北朝鮮のように映っている。外見は殆ど変わらず、多くの人々が、同じような国だと思うのは当然である。

 

 

what が how にすり替わると、意味が失われてもhowだけが残る。甚だしい場合には、本来の目的より how を優先する精神構造が形成される。戦争に勝つことが不可能となり、戦う意味が失われても、なお特攻隊として玉砕し、虜囚の辱めより自決を選ぶ精神構造である。

 

多くの場合、これは過ちを正当化するため、意図的に行われてきた。「キョーツケ! 前へ倣い!」は、意図的に残された習慣ではないかと思えてならない。