浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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子供教育の注意事項9-日本的誤解とその起源

 日本人のハンディ

 

前回、日本人は misconceptionに対する警戒心が薄いと書いたが、なぜか? 

そもそも、正しい概念の上にのみ正しい理解が成立する、という認識が乏しいからである。

 

日本語の辞書を開くと、抽象的な言葉の多くは、漢字のみで書かれている。まだ日本の文化が未成熟な時代に、中国から伝わった言葉を、そのまま受け入れたからであろう。その後、国内で作られた言葉も多いと想像するが、それらも似たような漢語的表現にしたのであろう。大和言葉から派生した、高度な概念を表す言葉は殆ど見当たらない。

 

これは学術用語にもあてはまる。西欧科学の用語は、多くが日常的な用語を元にして作られている。したがって、子供でも概念が分かりやすい。しかし日本人は、西欧から伝わった学術用語も、すべて漢語的に表現し、日常から遠いものにしてしまった。これは理系の学術用語だけではない。社会科学系用語も同様である。

 

「方程式」などと言われると、ひどく難解な響きがあり、私も何故そのように呼ぶのか知らないが、equationというのは、単にequateという動詞から派生した名詞であり、「等しいこと(を表す文章)」、という程度の単純な意味である。子供たちは発音から、すぐにそれが分かる。

 

そして、カッコ書きで「文章」と書いたのは、式も一つの文章だからである。例えばA×B=Cは、「A times B is C」あるいは「A times B is equal to C」などと読む。直訳すれば「BのA倍はC」という文章である。文章の一つとしてのequationと「方程式」では、最初に習った時の抵抗感が大きく違う。

 

日本語におけるこの種の抵抗感は、意図的に作られた気がする。かつては中国からの外来語を、漢字とともにそのまま使った。これをその後も続けたのは、良くわからないまま、高尚な響きを持たせることで、知る者の権威を高めようとしたのではないか。考えて見ると、「お経」なども、そのような気がする。最近では、英語の単語をそのまま使う人が多い。私も時々やってしまうが・・・

 

このような権威づけは、学習の妨げである。子供たちは新しい概念を吸収し、大人と共有しなければならない。それを日々、強いられている。かなり年齢の低い時から、分数、通分、面積、円周率・・・などと、次々に新しいことを習う。面積など、英語ではareaであるから、単に「広さ」でも良かったはずであるが・・・

 

 

論語読みの論語知らず

 

学術用語の抵抗感は、意味を考えずに学ぶ習慣を生んでしまう。用語を見て背景の概念がある程度分かれば、「何なのかな?」とwhatに注目する意識が生まれる。これがよくわからないと、とりあえず用語を覚えて次に進む。この段階で、whatが置き去りにされる。そして次に、howを覚えると「理解した」と思ってしまう。

 

これは理解ではない。錯覚である。あるいは(misconceptionの意味での)誤解である。いや、良く考えると、misconceptionですら無い。conceptが無いのであるから、強いて言えば、nonconceptionである。

 

苦悶式で微分を習った子供たちに「微分を知っている?」と聞くと、「知ってる」と答える。「微分できるの?」と聞くと「できる」と答える。だが、「関数って、どんなもの?」と聞くと、「微分するとき、出てくるもの」としか答えられない。

 

これは、論語読みの論語知らずの現代版である。以前にも書いたが、江戸時代の寺子屋では子供たちに、意味も説明しないまま、漢文の素読をやらせていたらしい。nonconceptionはやはり、漢文を高尚なものとする権威づけから始まったようである。これが現代まで続いている。

 

 

高校生や学生の方々には、自分が習った学術用語について、その意味するところを人に説明できるか、試みることを勧める。ノートに書いてみるだけで良い。冷や汗が出る思いがしても、それは正しい理解への一歩である。

 

 

 

「名前」の落とし穴

 

これは日本人に限らないが、逆に用語、すなわち名前を与えることによって、何かを理解した気になることがある。これも錯覚であり、大きなマイナスの効果をもたらす。そして理系より、むしろ文系の世界で多く見られる。

解った気になることはプラスの効果である、と主張する人もいるが・・・私は個人的には賛成しない。

 

 

理系の例であるが、古いエピソードを紹介しよう。私が生まれる以前の、高名な生物学者の話である(日本人ではない)。昔の事であるから、分子生物学ではなく、植物分類学が専門の先生であったと記憶する。

 

その先生は、数多くの新種の発見で、大きな業績を残されたが、晩年、学会で御自身の新説を強固に主張された。彼は「エンテレヒー」という新しい言葉を提唱し、これは生命の源である、と説いた。エンテレヒーが溢れていれば生命活動が活発であり、これが枯渇すると死に至る、というのである。

 

若手の研究者が、おずおずと疑問を呈すると、彼は「諸君は物理学者を見習い給え!彼らはエネルギーであるとか、エントロピーであるとか、勇気を持って新しい概念を次々と生み出し、それまで理解できなかったことを解明した。エンテレヒーは、生命現象を理解するための革命的な概念なのだ。新しいことを受け入れない態度では、学問の進歩は望めない!」と叱りつけた。

 

マーティン・ガードナーという若い哲学者が、この論争を終わらせた。物理学におけるエネルギーやエントロピーといった概念は、厳密に定義されており、測定し、数量化できるものである。一方、エンテレヒーは名前だけで、定義されていない。分からないものに名前を付けただけである。彼はこの点を指摘した。

 

 

されど、笑うべからず・・・

 

上の例は、昔のこととはいえレベルの低い話だ・・・とは、なかなか笑えない話である。このようなことは、自然科学以外の世界では、山ほどある。

 

例えば「才能」という言葉がある。

 

人間の能力差はどのようにして生ずるのか?  誰もはっきりとは分からない。しかし、どうも努力だけではなさそうだ・・・何か、根本的な原因が存在する・・・

多くの人はそう考え、「・・・がある」とか「・・・が無い」、と言って、能力差という現象を自分なりに解釈し、人々と認識を共有しようとした。

 

才能と言う言葉は、こうして生まれた。

 

しかし、才能は物質ではない。誰も手に取って見ることはできない。誰も実体が分からないものに(存在すら不確かなものに)名前を付けただけである。

 

もちろん、良くわからないものに、取り敢えず名前を付けることは、コミュニケーションに有用な場合もある。才能という言葉は一般的であり、使うことに異議を唱えるつもりは毛頭ない。エンテレヒーも「生命力」などと置き換えれば、日常的な表現としては十分に成立するであろう。

 

ただ、私は個人的には、この種の言葉はなるべく使わないようにしている。「能力」という言葉は時々使う。能力は結果であり、原因ではないからだ。手に取って見ることは出来ず、定量化も難しいが、結果であるので、少なくとも定性的には人々が認識できる。私としては「才能」より抵抗感が少ない。

 

 

名前の落とし穴にはまってしまうのは、努力が足りない人である。手っ取り早く答えを出したいと思い、また自分自身が納得するより、知識人と見做されることを優先する。最後には、頭が音を立てて空回りを始める。名前を知るだけで解った気になり、難解な言葉で人を脅すのは、そのような人々である。