浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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子供教育の注意事項10-教育と矯正の違い

 このシリーズの「誤解の種類」で、誤解に自分で気付き、修正する能力が必要であると述べた。また、どのような場合に誤解(というより無理解)が起こりやすいかを、前回の「日本的誤解とその起源」で少し述べたので、誤解を修正する場合の話も、書かなければならないと思っている。ただその前に、「キョーツケ! 前へ倣い!」の続きを、もう少し書いておきたい。

 

 

 

教育と矯正の違い 

 

子供の成長過程は(広い意味で)学習の連続である。そして、学習は絶えず修正を必要とする。学校の学習科目であれ、スポーツであれ、人としての振る舞いであれ、成長は自分を変えていく過程である。

 

自分を変えることは、自分自身に十分なモーティベーションがなければ出来ない。モーティベーションは、自発的な意思を持てる心の自由があって、はじめて湧いてくる。自由を抑制する社会では、人間的な成長が難しい。これは政治体制より、むしろ人間関係や伝統・文化の問題である。子供の場合には、主として家庭や教育現場のあり方になる。

 

「自由気儘」という言葉があるが、日本語の「自由」は、時として「行儀が良くない」という響きを伴う。つまり、それを抑制する空気が日本社会にはある。

 

自由とは、自らを由とするのであるから、自発的であり、また最初から自己責任を前提としている。それが成長の原動力である。外部的な力によって変わるのは、成長ではない。それは矯正であり、自己責任や自己判断を許さないものである。教育とは、成長を助けることであり、成長する力を育てることであって、矯正によって無理やり変えることではない。

 

 

心の自由を欠くとどうなるか 

 

自由を抑制すると、個人の成長が難しいばかりでなく、様々な問題が発生する。 

私の幼少時代、学校では多くの集団行動の強制が行われていた。私は何のためなのか全く理解できず、公教育に対する不信感を持つようになった。

 

これは息子のカメも同様であった。特に帰国子女は、日本の学校教育に馴染むには、最初の高いハードルを越える必要がある。これは日本だけではなく、アジア圏の多くの国々で共通の問題のようである。カメは適応能力が高く、すぐに子供たちの間で人気者になったが、「学校なんて、誰が考え出したの!?」と、親にはよく嘆いていた。

 

実際には、多くの子供たちが、私と同じような感情を持っていたのではないかと思う。しかし殆どは、強制に従うことを学ぶ。そして、そのうちの何人かは、これに従わない者に、同調圧力をかけるようになる。

自分は従っているのに、従わなくても許される者がいるのでは、間尺に合わない。「俺も我慢しているのだから、お前も我慢しろ」・・・となる。

いじめのルーツは、この辺りにあるようだ。相撲部屋をはじめとするスポーツ界の暴力事件も、同様である。自分がされたことを、しているのである。

 

 

抜け目のない子供は、大人の背中を見て、他人をコントロールする術を学ぶ。それは初等教育の現場で始まる。

ガキ大将も腕力だけでは、子供たち全員を従わせることはできない。ましてや今は、腕力の時代ではないことは、子供も解っている。

そこで、心の自由を持たない者を仲間にして、自分に都合の良いルールを提案し、習慣化させる。その上で他の者を、同調圧力を利用して従わせる。これは時に、同調圧力に従うことを「協調性」と勘違いしている教員を巻き込む。この勘違いは、典型的なmisconceptionである。

 

子供のころから鍛えられているせいか、パワハラにしろ、いじめにしろ、最近は手が込んでいる。子供の頃から、このような非生産的な消耗戦に血道を上げるのは、馬鹿げたエネルギーの浪費である。

 

これが、人間力を高める「生きた人間教育」になる、と考えている人もいるが・・・

 

社会が大きく変化しても通用する人間教育について、考えるべき時期に来ていると思う。同調圧力を利用できる能力は、人間力ではない。

 

そのような能力は、もとより社会のためには役に立たないが、雇用が流動化すれば、自分のためにも役に立たない。

 

自らを向上させる能力が、真の人間力である。