浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

~記事へのコメントは歓迎です~

英国人の計算能力

英国に渡る前に、英国人は暗算ができない、という話を、多くの人々から聞いていた。実際に滞在経験のある、大学の人々からである。

 

良く聞かされていたのが、引き算ができないので、釣り銭の計算に足し算を使う、という話である。

日本円で説明すると、例えば540円の買い物をして、1000円札を渡したとする。すると、まず10円玉を1枚ずつ出しながら、550,560、・・・と呟き、600円になるまで続ける。途中、10円玉が5枚になった時点で、50円玉と交換する。

次に100円玉を1枚ずつ出しながら、700、800、・・・と言って、1000円に達するまで続ける、という具合である。

スーパーではレジスターがあるので問題ないが、個人商店ではこれが行われる、ということであった。

 

俄かには信じがたい話であったが、これとは別に、私は叔父から、戦時中に捕虜となったイギリス兵の話を聞いたことがあった。彼等に波止場の荷役をやらせた際に、長方形に積んであった大量の木箱の個数を数えさせたが、垂直方向の段数と水平方向の列数を数えさせ、掛け算したところ、彼らは誰も結果を信じず、ひと箱ずつ数え直していた、というのである。

 

 

英国の通貨

 

私は幸いなことに、どの店でも、引き算の出来ない店員に出会うことはなかった。ただ、複数の買い物をすると、商品を一つずつ清算し、個別に釣り銭を払う店主には、時々出会った。

 

ヨーロッパでは、通貨の額に、5と10の倍数だけでなく、2の倍数が入るので、多少ややこしい。当時はユーロはまだ誕生していなかったので、通貨はそれぞれの国で異なり、英国はポンドであった(今でもユーロではなく、ポンドである)。

コインは大きいものから順に2ポンド、1ポンド、50ペンス、20ペンス、10ペンス、5ペンス、2ペンス、1ペンス・・・そして最後に、1/2ペンス(half penny)という(女性の小指の爪ほどの)ごく小さい銅貨がある。

紙幣は50ポンド,20ポンド,10ポンド,5ポンドである。half pennyを除けば今のユーロと同じで、とくに複雑ではないが、これは改革を実行したからである。私が渡英する10年ほど前まで、英国は10進法、12進法、20進法の3つが入り混じり、単位がポンド、ペンス、シリングの3つに分かれている非常に複雑な通貨を使用していた。したがって、釣り銭を暗算で計算する意欲が失せるのは、理解できる。商品を一つずつ、個別に清算する習慣も、当時の名残りかもしれない。

 

ちなみに、私の滞在当初は、2ポンドと1ポンドのコインは使われておらず、これらは紙幣であった。また1/2ペンス硬貨は、私の帰国後に廃止された。

50ポンド紙幣は滅多に出回らないようである。小さなドラッグストアでこの札を出した時、店主の女性が「生まれて初めて見た!」と感激し、透かしながら何度も眺めていた。

当時のレートは、1ポンドが450円程度であったと記憶する。私より5年ほど前に滞在した研究室の先輩からは、1ポンド千円と考えれば良い、と教えられていたが・・・今は1ポンド=150円前後であろうか。 

 

 

スーパーにて

 

引き算が出来ない人には、お目にかからなかったので、私はやや安心して、日々を送っていたが・・・

 

ある日、スーパーで買い物をしている最中に、ボスのY教授に電話しなければならないことを思い出した。

当時は携帯電話は存在せず、公衆電話を利用する以外に無い。公衆電話は、使えるコインが限られており、20ペンス硬貨が必要であった。そこでレジで支払いをする際に、「電話をかけたいので、釣り銭の1ポンド分を、20ペンス硬貨で貰いたい」と、レジ係の若い男性に頼んだ。

 

淀みなく動いていた彼の手が止まり、そのまま長いこと、動かなくなった。行列の客は静かになり、沈黙が続いた。

 

私はその時、現地で長く生活していた日本人留学生と一緒であった。彼は衆人環視のもとで、レジスターの現金にゆっくりと手を延ばし、レジ係の男性に釣り銭の金額を並べて示した。そしてその中から、1ポンド紙幣をレジに戻して残りの釣り銭を私に渡すと、さらに20ペンス硬貨を5枚摘み上げて「Should be OK !」と微笑み、私の背中を押した。

 

道すがら、私に硬貨を渡しながら、彼はこう言った。「だめですよ、浦島さん・・・あんなことさせちゃ・・・かわいそうに、あの人、フリーズしちゃったじゃないですか」・・・

 

そこで初めて、私は事情が呑み込めた。察しの悪い私は、レジスターの故障かと思っていた。

 

 

パブにて

 

私は最初の2年間だけ、大学キャンパス内にあるゲストハウスに住んでいた。キャンパス内にはパブがあり、そこで時々ビールを飲み、また持ち帰りで小瓶のビールやワインを買うことが良くあった。

 

空き瓶はパブでリサイクルされるが、持ち帰りの際にデポジットを払い、空き瓶を返すときに払い戻してもらう。いくらだったか覚えていないが、空き瓶数本で、ビールのハーフパイント(日本の中ジョッキ程度)が飲める金額である。これはリサイクルを徹底させるのに良い制度と思う。

 

大学のパブの親爺さんは、スコットランド系で、暗算が速いので有名であった。日本人と変わらない速さで、さっと釣銭を渡す。彼自身もそれを誇りにしており、自慢げに素早く渡す。

 

私はある日、10本以上溜まってしまった空き瓶を抱えてパブに持ち込み、彼に本数を告げ、さらに「赤と白のワインを一本ずつ持ち帰りたいけど・・・それと、ビターを1パイント、ここで飲んで帰るから」・・・と伝えた。

 

顔が一瞬、歪んだように見えたが、彼はワインを2本取り出し、ビターを並々と注いだジョッキと合わせてカウンターに置いた。そして私に金額を告げると、プイと横を向き、グラスを拭き始めた。

 

しまった・・・ と思ったが遅かった。彼の告げた金額は、私が支払うべき金額の、およそ半分だった。彼が暗算で計算しようとするとは思わなかった・・・

彼は、私の方へは2度と顔を向けなかった。

人々がごった返すパブの中で、カウンター越しの彼に、小声で話しかけるチャンスはない。バイトの女の子が、代金を受け取る構えで待ち受けていた。

私は迷ったが、結局、人前で彼のプライドを損じるより、自分が飲み逃げ犯になることを選んだ。