浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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子供教育の注意事項11-心の自由と自己修正

前回、心の自由と社会的な問題の関わりを書いたが、心の自由は当然、個人の問題にも大きく関わる。 

 

日本に教えに来た有名な音楽家が、「日本人はすべての人が幼稚園児のようだ」と嘆いていた。判断を他人に預ける習慣が身について、自立心が育っていない、というのである。

自立心は心の自由から生まれる。成長を助けることが教育であると考える人は、心の自由が乏しい人を教えられないのである。

 

 

教育が控えるべきところ

 

普通の子供たちは、能力上、あるいは性格上の短所を持っている。

大人も勿論であるが・・・

教育者の多くは、それらを「正しく」修正することが使命と考えると思うが、そこには、あまり教育が介入しない方が良い部分がある。

 

 

能力的な力不足は教育で強化できるが、「向き・不向き」という言葉があるように、これには個人差がつきものである。

 

「向き・不向き」は「心の向き・不向き」である。それによって、個人個人の能力に偏りが生ずるからこそ、人類は集団として力を発揮し、発展できる。それは個人の心の自由がもたらすものであり、神の差配である。

 

子供たちを多くの機会に触れさせ、多くの可能性を与えることは教育の役割であるが、心が向くことを妨げてはならない。この点が、日本の教育は逆になっている。「偏り」を不可とする考えが強く、むしろ「不向き」な方向に努力させる傾向が強い。

これは個人の幸福の追求を阻害するばかりか、多様性を失わせて社会を弱体化させる。

 

 

また、教育によって性格を変えることはできない。さらに、性格的な長所と短所は、しばしば表裏一体であり、短所ばかりに目を向けると判断を誤る。

 

性格を変えることができるとすれば、それは自分自身であり、良くも悪くも、人生経験である。そして私の観察では、人生経験によって人の判断は変化しても、性格の基本は変わらない。

性格的な短所は、非行や犯罪にまで至らなければ、時間が味方して解決してくれることが多い。人はそれぞれ、自分の生かし方を人生から学ぶ。むしろ幼少時の無理な矯正は、非行や犯罪に繋がる。

 

 

自分を客観視する習慣

 

教育は何もするな、と言っているのではない。教育の役割は別のところにある、と言っているのである。

 

最も重要なのは、成長する方向を自分で見定め、修正点を、自分で把握する能力を育てることである。それが無ければ、時間は味方をしてくれない。それには、自分を客観的に観察する習慣を身に付けさせることが大切である。

人間は、自分の進む方向を自分で考え、その方向に足を踏み出したときが、大人への第一歩である。そのとき初めて、専門的な教師が、それを助けることが出来る。冒頭に述べた音楽家は、それを待っていたのだろう。

 

心が自由(=気儘)では、自分を客観的に見ることができない・・・と考えるのは、大きな間違いである。これは、「自分を客観視する」ことと「人の言うことを聞く」ことを同一視することにより生じた誤解(=misconception)である。

 

心が不自由であるとは、一定の考え方や判断基準に縛られて、自分自身の視点を持てず、また視点を自由に変えられない人のことである。

一部の人々の考え方を絶対視したり、社会通念に縛られていることだけではない。自分の築いた価値観や方法論に拘泥して全体を見失うことも、また心の不自由さである。

つまり、心が自由でないと、自分を客観的に見ることができない。

 

 

 向上心が自分を客観視させる

 

自分を客観的に観察し、自分で修正点を把握させるのは、心の自由に加えて、向上心である。習い事やスポーツなどに打ち込んでいる子供は、向上したいという欲求を、自然に持つようになる。

 

上達するために自分自身を厳しく観察し、他人と比較し、自分の問題点を把握しようと努める。他人に注意されずとも、仲間や指導者に進んで助言を求め、人との適切なコミュニケーションを覚える。

 

そして修正の仕方を工夫し、その結果を確認する、という一連のサイクルを、自分の習慣とする。

 

一流のアスリートや芸術家などの成長過程は、よく紹介されるところであるが、共通しているのは、子供時代から、自己改革の強い意思を持ち続けていることである。そのような意識を持ったとき、子供たちの精神的なエネルギーは非常に大きい。

 

  

 

学業のモーティベーションと試験

 

スポーツや習い事には熱中できても、学業については、どうしてもモーティベーションが低くなる傾向にある(研究者には逆だった人も多いが)。しかし日本では進学熱が高く、入学試験が大きなモーティベーションになっている。 

 

これは、日本に特有の現象ではない。アジア諸国は勿論のこと、欧米諸国でも、程度の差はあれ、事情は似通っている。社会は高度化・国際化され、産業構造がハイテク化されているので、先進諸国では、今後もこの傾向は益々強まるであろう。 

 

かつては、進学のために勉強することは、真の勉強ではない、と声高に(ややヒステリックに)主張する人々が見かけられたが、最近は見なくなった。目的を持って進学する人が増えていったからであろうか。

当時は進学率が高い時代ではなく、私立大学に進学する富裕層や、官僚を中心とする学歴エリートへの反感が、背景の一部にあったように思う。今は死語となったが、ガリ勉」という言葉に代表されるように、教育評論家を名乗る人々は、「学び」と「進学」を切り離し、学歴志向に否定的な意見を述べる傾向が強かった。

今では、高等教育を受けた人々が国際的に活躍するようになり、各分野の専門家の意見が尊重されるようになってきた。彼らの影響もあってか、今の若者は、進学と将来の準備を、一体のものと考えているように思われる。

  

 

進学のための、すなわち入学試験のための学校教育は、確かに弊害を生んできた。学校での定期試験は、入学試験を模した形態に近くなっている。採点され、点数化されて、成績表に記載される。これらの記録は「内申書」のデータとして評価にも利用されるので、生徒にとっては、定期試験は、評価が目的に見えてしまう。

 

これは試験の本来の目的から外れている。そもそも、 test や examination という言葉は、もともとは、例えば装置などの動作を確かめるような場合に使われる言葉で、評価するという意味は持たない。つまり「試験」は、学習者の理解度を確かめ、修正点を発見するために行われるチェックである。学校で行う試験の真の目的は、試験後のフォローアップでなければならない。

 

順位付けを行う競技大会なども試験に近いと言えるが、トップアスリートは、競技後のインタビューで「自分の課題が見つかった」と答えることが多い。常に、次を考えるからである。私は多くの子供たちに、学校の試験においても、これを見習うことを勧める。入学試験を目標として、別に悪いことはない。

出来れば、日頃から自分で自分を試験し、自己点検する習慣を身に付けると良い。この習慣は、自己修正能力を鍛え、社会人になっても、あらゆる場面で役に立つはずである。

 

 

日本の受験社会は、中等教育を学力向上に集中するように仕向けてきた。

これに対し、「学校が人間教育の場であることを忘れている」という批判が常にあった。私は受験社会を肯定している訳ではないが、私に言わせれば、これは必ずしも悪いことばかりではなかった。

 

今なお「キョーツケ!前へ倣い!」を励行している日本の学校において、学力より「人間教育」に重きが置かれていたら、どうなっていたか・・・あまり想像したくない光景である。受験社会は図らずも、教育者をして地に足を付け、日々の仕事に集中するように仕向けていたと言える。 

 

そもそも、学力の向上と人間教育は別である、というのは正しくない解釈である。そのようなことを当然のように口にするのは、本気で勉強したことが無い者である。

ただ私は「学習内容に意味がある限りにおいて」という留保をつけたい。「勉強のための勉強」としか思えない内容が、あまりにも多い。これをやらされて来たので、人間教育は別だ、というような解釈が出てくるのかもしれない。これは入学試験の方法や、出題内容の適切さの問題でもある。これについては、また別のところに書こう。

 

 

ついでに・・・

 

巷に誤解が流布しているようなので、受験生の皆さんのために、蛇足を付け加えておこう・・・

 

大学受験を考えるのであれば、学校での日々の評価など、気にする必要は全くない。

 

大学側が求めるのは、最終的に到達した学力である。確かに、文部科学省は、調査書等による「平常評価」を選考に取り入れるように指導しており、各大学の募集要項にもそのような文言が記載されている。しかし、少なくとも理系では、推薦入試においてすら、それらが考慮されることはまず無い。合否は口頭試問など、大学側の学力判断で決まる。中高生は担任の心証など、余計な心配をせず、学んだことをしっかり、消化吸収すれば良いだけである。