浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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「常識」という名の同調圧力

パーティの話題

 

 英国滞在中に、C教授の主催するパーティに何度か招かれた。C教授は私のボスではないが、私とは非常に懇意であった。

 

その席で、ハンガリー語とフィランド語が良く似ているらしい、ということが話題になったことがある。両国は距離的に離れているので、殆どの人は「他人の空似」であろうという説を支持した。

 

言葉の話になると、私はよく意見を求められる。私は、うろ覚えの中学校社会科の知識から、2つの国は民族も言語も親戚ではないか、との意見を述べた。民族大移動の引き金となったフン族の侵入、その一部がフンガリアを建国し、他の一部はスカンジナビアまで侵攻してフンランドを建国した・・・という話をして、ついでに、ハンガリー語に近い日本語では、HとFの発音が区別されないという話を付け加えた。

 

フィンランドという国の起源については、今ではフン族との関係が疑問視されているらしいが、いずれにしろ、どうして日本人の私が、そのようなことを知っているのか、と人々が目を丸くした。学校で習ったと話すと、さらに驚かれた。

 

民族大移動は、現在のヨーロッパの国々を形成した歴史的な大事件である。これを、C教授を含め、知っている人が殆どいなかった。フン族の侵入を知っていたのは、一人だけであった。日本人が大化の改新を知らないようなものである。

 

このようなことが時々あり、私は百科事典と呼ばれ始めたので、あまり余計なことは口にしないようにした。微妙に好意的でない響きを感じたからである。 

 

 

組織としての判断力

 

国により差はあるが、一般にヨーロッパでは、大学関係者でも、専門外の知識は乏しい。英国では理系の場合、多くの人々は、ギリシャとローマのどちらが先かすら知らない。

責任ある立場の者が、一般的な知識を余りに欠いていると、様々な点で、判断を大きく誤りかねない。政府や企業の要人もこの程度であれば、国が危ういのではないか、と思ったほどである。

 

実際には英国人は、素人判断を戒め、専門家の意見を尊重するので、組織として判断を誤ることが、あまり起こらない。

専門家でない者が口出しをすることを、社会も許さない。例えば文学部の出身者が、経済評論家や科学評論家として活動する、ということは、まず不可能である。政府も、科学行政の諮問会議のメンバーに華道家などを加え、多様な意見に耳を傾ける・・・などということはしない。専門外の人の「多様な意見」は排除する。

  

 

もちろん、職場の雑多な業務においてまで、専門家の判断を仰ぐ訳にはいかない。そのような場合は、可能な範囲で、関心や対応能力を持つと思われる者の意見が尊重される。

 

キャンパス内で、夏の社会人学習に参加した数名の老人が、相次いで、歩行中に軽い接触事故に遭うということが起こった。C教授は、キャンパス内の交通安全の改善を一任された。実用上の問題なので、実験物理学者であるC教授は、他の委員より適任と判断されたのである。

彼が導入した一方通行のシステムは、当初は人々が口々に不満を漏らした。殆どの人が通勤に車を使っており、多人数で協議すれば、この案は決して採択されなかったと思われる。少なくとも、合意の形成に多大な時間と労力を要したであろう。

 

私は個人的には、歩行者のスペースと安全を確保する最も賢明な方法と感心した。歩行者の安全を優先させる変更であるから、車の利用者にとって不便となることは避けられない。彼は、短い連絡道路を新設するなどの斬新なアイデアで、これを最小限に抑えていた。コスト・安全性・利便性の妥協点として、誰が考えても、これ以上の案は出ないであろうと思えた。

 

その後しばらくして、不満の声は静まった。文句を言っても始まらないので人々が諦めたのか、評価を変えたのかは不明であるが・・・とにかく、キャンパス内の交通安全の問題は、問答無用で短期間に処理され、終了した。

 

 

知識の共通集合と和集合

 

人間は自然に様々な知識を蓄えるので、実際にはヨーロッパの人々が、日本人より知識の「量」が少ない、ということは無いように思うが、学校教育に含まれる「学術的」な知識については、確かに日本人のほうが明らかに多い。

 

ただ、学術的と感じるかどうかには、国民性の差が有り得る。フン族の話などは、単なる雑学と感じる人が多いかもしれない。少なくとも現代の社会において、国際情勢を理解し、判断する上で必要な知識ではない・・・そもそも、学術的な知識に「教養」として価値を置くのも、日本人の固有性かもしれない。

 

教養かどうかは別としても、日本人は、知識を共有することを重んじる。いわゆる「常識」という概念である。学校で教える内容は、文部科学省の検定によって、細かく規定され、標準化されている。教えるべきことは教えなければならないが、それから逸脱することは厳しく制限される。

とくに入学試験の出題内容については、出題する側はすべての検定済教科書に記載されているかどうか、神経をとがらせて、事前に調べる。逸脱していると見做されれば注意を受け、場合によっては問題を無効とされる。

 

その結果、日本人は非常に多くの知識を有しているが、すべての人々が、ほぼ同じ知識に限定される。社会通念としても、皆が知っていることを知らないのは恥であり、信用を失うことに繋がる。まずは知識の共有が最優先であり、多くの人々が知らない事項は重要度が低いと見做される。

 

その結果、日本人は、個人として蓄えている知識量は多いが、社会として蓄えている知識量は、かなり少ない可能性がある。「常識」は共通集合であるが、社会に蓄えられている知識は、共通集合ではなく和集合である。通常は後者の方がずっと大きいが、日本の場合、両者の差が縮まっている。

そして、多くの人が知らない知識に基づいて意見を述べても、それは人々が不安を感じ、異端として退けられる。大多数の人々が持つ知識に基づいた「常識」的な判断が、安心感を持って迎えられる。これが同調圧力として作用する。

 

このような社会は、チェック機能が働かず、間違えるときは集団で間違えを犯すことになる。第2次世界大戦への参戦は、こうして始まった。キョーツケ!前へ倣い!江戸時代からの奇怪な教育方法の伝統も、これに類する。個人の知識が多様であり、社会に蓄えられている知識が多いほど、社会は強い。日本の社会は、その点で脆弱だったのである。

 

 

常識を嫌う社会でのマナー

 

「常識」に対応する最も近い英語は、common senseであろうか。knowledgeではなくsenseであるから、これは知識とはやや違うが、知識を意味する場合もある。

 

実はこの言葉は、英国人は滅多に使わないので、私は彼等がこれを避けているような気がしていた。日本人が良く知っていて、英国人があまり使わない言葉は、結構ある。

 

ある時、論文を書いた際に、良く知られている事柄について、well knownと書いたところ、投稿前に原稿を読んでくれた年長のスタッフから、この言い方はしない方が良い、と助言された。良く知られていることであっても、論文ではそのような言及を避け、知らない人が調べられるように、必要な文献を引用することを彼は勧めた。

 

論文としては当然のことであるが、私は十分に配慮していなかった。参照文献を引用せずにwell knownで済ませることは、多くの著者がやることなので、それまで私も気軽にやっていた。これは米国に多いのかもしれない。

 

英国ではこの種の言葉は、知らないことを蔑視するニュアンス、頭から「誰でも知っているべきだ」と決めつけるニュアンスが感じられて、マナーに反するのであろう。思い過ごしかもしれないが、私を百科事典と呼ぶ背景にも、「くだらないことを良く知っているやつだ」という意識があったかもしれない。

 

なお、common sense という言葉は、大陸から来ている(とくにドイツ語圏の)人々が使うのは、しばしば耳にした。どうも、ユーラシア大陸を西から東へ進むにつれて、同調圧力は強さを増すようである。