浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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回り道をした人々1

私と同年代の人であるが、ある高名な理論物理学者の御子息と、同じ高校であった。

その高校では、しばしば生徒同士の喧嘩があったが、野次馬とともに教師が駆け付けると、当事者の1人は必ずその御子息だったそうである。その時々で、相手は変わっていた。

 

どうも理系の人は・・・とくに物理は・・・なかんずく理論屋は・・・ 

という溜息が聞こえてきそうな話である。

 

テレビで放映されるノーベル賞授賞式の様子などから、多くの方々が抱かれるであろうイメージとは、残念ながらかけ離れていると思うが・・・その他大勢の物理屋については、大学内での共通認識は、ややこれに近い(ただし、上に紹介した御子息が理系に進まれたかどうかは、明らかではない)。

 

上のようなトラブルではないにしろ、私が知り合った物理屋の中には、幼少期、あるいは青年期に、様々な問題を抱えていたと思われる人々が、相当数いる。

 

 

P.H. 教授の話

 

まだドイツが東西に分断されていた頃、西ドイツで開催された国際会議に出席した。このとき私は、後に「奇跡の人」と言われるようになったP.H.氏と知り合った。当時私は、大学院を修了して6~7年程度を経た研究員であったが、2歳年上の彼は、まだ大学院の学生であった。素朴な職人のような印象の人であり、博士論文の提出にまだ少し時間を要する、と言っていたが、私のやっている研究に関連する、注目すべき実験結果を発表していた。

 

彼と親交を結ぶようになり、後に彼の生まれ故郷である、南ドイツの美しい村を案内してもらった。その時、私たちは隣村に足を延ばし、小さな教会に立ち寄った。古い教会とのことであったが、内装・外装は美しくリニューアルが施され、それからあまり年月が経っていないように見えた。彼は、「この教会の修復は自分が手がけた」と話し、私に身の上話を打ち明けた。

 

彼は4人兄弟の末っ子であり、家は、村で代々の秀才一家として知られていた。飛び抜けて優秀だった上の3人の兄弟を教えた教師は、彼にだけは大変手こずった。

 

絵ばかり描いている彼に、「君の兄さんや姉さんは素晴らしかったのに・・・どうして君だけ、こんなこともできないのか・・・」と教師は言い続け、彼は自分でも絶望する日々を送っていた。

 

 

卒業と同時に、大工職人の見習いとして働き始めた。彼の行く末を案じた建築家の長兄が、探してくれた仕事である。3年間が過ぎ、ひととおりの仕事を覚え、最初に任された教会の仕事も認められた。同級生の女性と結婚し、安定した生活の目途が付いた。

 

・・・その時、自分は生涯、この生活を送り続けるのだ、と気が付いた。

 

その時の感覚は恐ろしいものだった、と彼は語った。それは自分が心を傾けられる仕事ではないことを、始めて自覚した。

 

  

どのようにして大学に入学し、博士課程の奨学金まで、得ることができたのか・・・それについては、彼は語らなかったが、誰もが口を揃えて、ドイツの教育制度では、それはまず不可能で、彼は奇跡でしかない、と言った。  

 

 

 

彼の仕事ぶりは伝説的である。一度実験室で働き始めたら、実験が完全に終了するまで決して休まない、と言われたほどである。

村を案内してくれた時、彼はすでに博士号を取得して、研究者としての道を順調に歩み始めていた。研究は評価されて受賞もあり、彼の指導教官は、博士号取得後も彼を助手として残した。研究室は事実上、彼が仕切るようになっていた。

 

しかし彼は多くの犠牲を払った。結婚生活はすでに破綻し、妻と離婚協議中であった。

彼女は、大学の人々に敵意を持っていた。彼女は職人のPと幸せな結婚をしたと思っていた。気の置けない職人仲間の人々と、楽しい生活を送れるはずだった。

大学の人々と接するようになり、自分たちの生活圏も交友関係も変わって行く。ドイツのアカデミズムは別世界である。非常に権威主義的で、話し方や服装にも気を遣い、ライフスタイルまで変えなければならない。

夫が研究者として知られてくると、ゲストとの会食やパーティに同席することを求められた。これが最も苦痛だった。男性たちは物理学の会話に明け暮れる。自分は失礼が無いように、丁重で気品のある振る舞いに、場に合った会話で、ゲストの伴侶を楽しませる・・・興味も価値観も異なり、人生の背景が全く異なる人たちと、そんな交流はしたくない。出来るはずもない。自分の生活が破壊され、夫が別人になって行くのに耐えられなくなった。故郷の村に戻り、自分に合った生活を取り戻したかった・・・

  

東西ドイツが統一され、旧東ドイツの大学が整備された際に、多くの研究者が求められて西側から移り、彼は私より2年ほど早く教授職を得た。着任して間も無く、廃屋として放置されている家を安値で買い取り、自分の手で美邸に仕上げた。大変大きな家で、ある雪の日に、自分の庭を散歩して道に迷い、凍死しそうになった、と言っていた。

 

彼は高校の数学教師と再婚し、今は大邸宅で幸せに暮らしている。

 

 

 

ドイツの学校教育は、日本と似通ったところがあるのかもしれない。つまり、当てはめ思考を強制する傾向である。

 

研究会やシンポジウムで、基礎知識や常套手段を頭に詰め込み、これを対象外のケースにまで当てはめてしまう人を、ドイツの若手研究者の中に、比較的多く見かけた。間違いを指摘されると、「常識」を振りかざして反撃してくる。ドイツ人でなくとも、ドイツでポスドクを経験した人は、人格まで攻撃的に変わり、似た反応をする。

 

確かに良く勉強しているが、そのような人々の常識は、初歩的な誤解(misconception)に基づいていて、講演者に対しても、見当違いの質問をよくする。彼らは日本人ほどは、間違いに対する慎重さが無い。私は誤解に気が付くように、婉曲にコメントを返したが、次回の研究会でも、また同じ誤解に起因する質問を繰り返し、自己修正能力が無い。

 

ドイツ人同士のやりとりをみていると、これは熾烈である。権威ある人々の中には、婉曲なコメントなど返さず、「I am sorry !」の一言で、プイと横を向く人も多い。この場合、sorryは「御理解いただけなくて残念ですね」という、上から目線での切り捨てである。

 

間違いではなくても、誰にでも出来るような研究や、意義の乏しい研究は、たとえ多くの論文を書いても評価は低い。物理学は、次々と小分野が誕生して発展し、そのうちの幾つかが大分野として残る。当てはめ思考で重要な結論が得られるような「美味しい」仕事は、発展の初期段階で、すべてやり尽くされる。

若い研究者が世に出るためには、そこから一歩、抜け出なければならない。大学や研究所の正規ポストに応募するためには、博士号では足らず、Habilitation という上級の資格が必要である。それには相当の研究の蓄積と質が要求され、審査の厳しい質疑応答に耐える実力が必要である。アカデミックな世界に残るのは、およそ10人に1人である。

 

 

P.H.教授は恐らく、whatが分からずにhowだけを教えられると、足が前に出ないタイプだったのだろう。私の観察では、芸術的な性向のある人の多くは、そのタイプである。ドイツ式の学校教育には馴染まなかった。

 

進学の際に、建築家の兄が経済的に支援してくれた、とだけ話してくれた。絵が好きだった自分に、リフォームの仕事を勧めた兄の判断は正しかったと思うが、それを一生続けられるか?と自問自答したとき、答えは完全にノーだったと言う。彼はその時、自分が何者であるかを悟ったのであろう。

 

研究者としての彼は、本質的な点に強く拘り、考察が多面的で深かった。これは物理屋として彼を知るすべての人々の、共通の意見である。

 

whatを理解し、何が本質であるかを体で捉え、まわしを掴んだ時の彼は強かったのである。彼は自分が何者であるかを知ると同時に、自分の勉強のやり方を自覚し、それを貫く決心をした。そしてそれにより、彼の本来の能力が覚醒し、当てはめ思考では到底及ばない、自分の学問スタイルを確立した。

 

そして恐らく、長兄は彼の能力に気付いていた。