浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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回り道をした人々4

博識のH.B. 教授

 

H.B.教授とは、「タテの教育とヨコの教育」や「ある転職」に登場したスイスのB教授のことである。また「スイスの鉄道網」でも紹介した。彼もまた、回り道をした人々の一人であった。

 

彼は非常な紳士であった。客人に対する気配りは相当なもので、他の街に用事があるときには、私を誘い、時間をとって案内し、週末に夕食に招待するなど、厚いもてなしを受けた。私より10歳年長であったが、音楽に趣味があり、奥さんがピアノ教師であることなど共通点が多く、私たちは良い友人になった。

 

そして、彼に関して驚いたのは、並外れた博識である。

教会のパイプオルガンの奏者であり、様々なジャンルの音楽作品に詳しい。言語は母国語であるドイツ語の他、英語は勿論のこと、完璧なフランス語と、ロシア語もほぼ身に付けていた。

 

音楽を趣味とする人が、多くの作品を知っているのは当然である。またスイスは小国ながら、独仏伊の3言語の地域に分かれているので、ロシア語を除けば、3ヶ国語を話すのは通常の範囲と言える。

 

しかし彼はそれ以外にも、様々な分野で驚くほど博学であった。例えば殆どの植物について、名前はもちろん、それぞれの特徴を熟知している。植物園のガイドもできるほどである。また歴史の知識も非常に豊富だった。旅先では色々な場所の歴史的由来を、ローマ時代に遡って解説してくれた。その知識の確かさと広さは、並みの旅行ガイドをはるかに凌いでいる。これは、通常のヨーロッパ人と大きくかけ離れていた。

 

 

H.B. 教授の前職

 

以前の記事で、H.B.教授と共に行動すると、必ずといって良いほど、彼は色々な人に声をかけられると書いた。

 

ある日、彼は例によって乗換駅で、買い物籠を下げた中年の婦人と、親しげに立ち話をした。乗り換えの列車が到着し、御婦人と別れてから、「あなたは各地に知り合いが多いですね」と言うと、自分はかつて小学校の教師をしていたので、各地に散らばっている教え子がいるのだ、と明かした。

 

 

話を聞くと、彼の勤めていた学校は、日本の過疎地域の分校のようなものであった。そして、日本の小学校と中学校を合わせたような年齢をカバーしていた。1年生から10年生までと聞いたと思う。それでも生徒数は合わせて30人程度で、教員は2人のみ、それぞれ半数ずつ、全学年の生徒を教えていたという。この形態は、人口分散の進んだスイスでは珍しくないようである。

 

どのようにすれば、そのようなことが可能になるのか・・・?

それぞれの教員が担当する生徒は、自習室と教室の2つに分かれる。教室で黒板を前に、数名ずつグループに分けて指導する。指導を終えると、課題を与えて自習室に向かわせ、次の数名と交代する。これを繰り返す。

それぞれの教員が受け持つ生徒は、グループ分けに無理が生じないように、年齢や学習進度を考慮して、2人で協議して決める。翌年はまた編成を変える。協議に時間を要する年もあるが、あまり問題なく決められるそうである。

 

年齢の若干異なる子供たちが同じグループに属することを許容する。教える順序や内容の判断は現場に任され、年齢で一律に規定しないのであろう。そして、自分が受け持つ生徒に対しては、すべての科目を一人で教えなければならない。ただ、運動が苦手な彼は、体育だけは全生徒を同僚に任せ、かわりに音楽と美術を全生徒、受け持っていた。

 

個々の教員の力量を信頼した、柔軟なシステムである。適任の教師がこのように指導するのであれば、理想的と言える。これだけ多様な子供たちを相手にすれば、勉強を進めるだけでも様々な困難が生ずるとは思うが、これらを適切にマネージできる教員を養成することは、大変なことである。

 

スイスの教員養成、とくに初等教育の教員養成は、高校を卒業した後、4年制の特別な教育機関で行われる。これは大学ではなく、教員養成に特化した専門学校である。

日本では、大学で教職単位を幾つか取り、2週間程度の教育実習を受ければ、簡単に中高の教員免許が与えられるが(したがって私の教え子にも中高の教員が多いが)、スイスでは、初等教育の教員は特別な専門職である。資格を得るには、長期間の実習の経験を含めた、高度な職業訓練を受けなければならない。

 

彼の博識の謎はこれで解けたが、彼の歩んだその後の道筋を知り、また驚いた。

 

 

転身を可能にしたもの

 

H.B.教授は若い時、あまりにも多くのことに興味を持ち、自分の進む道を絞れず、様々なことを勉強する教員が向いていると考えたそうである。

 

 教員養成校を卒業し、3年の教員生活を経た後、彼は物理学を志すことを決意し、大学に入学した。そして4年間の学部を卒業して博士課程に進み、5年後に博士号を取得した。

つまり、彼が博士号を取得したのは34歳である。そして彼は、36歳で教授に就任した。

 

これは、日本では絶対に不可能である。

 

彼は一発仕事で特大ホームランを放ち、それで一躍、有名になったのか?

それなら可能性はあるが、そうではない。彼の仕事は堅実で、どちらかと言えば地味である。誰でもできる類の仕事、と言っても良いくらいである。

では、ものすごいパワーで、人の何倍ものペースで論文を書いたのか?

それも違う。論文の数は、少なくはなかったと思うが、それまでの短い研究歴に相応の範囲で、驚くような数ではない。

 

それなりの数があったのは、実験家との共著が多かったからであろう。これは、彼の生涯にわたっていた(過去形で書いたが、彼は退職後10年以上が経過した現在でも、活発に活動を続けている!)。もちろん、彼らと一緒に実験室で立ち働いた訳ではない。しかし、実験的研究を進めるために、重要な貢献をしていた。彼の教授就任は、数において物理屋の8割を占める実験家が、強く支持したからである。

 

実験家は、理論家の意見を求めて測定を追加したり、データの整理・解析で世話になることがよくある。このような交流から、データの解釈が理論的な説明のレベルに発展することもあり、そのような場合は共同研究として論文が発表される。彼の場合はこれが非常に多かった。

 

通常は、理論家と実験家の間の距離は大きく、このような共同研究は、決して多くない。よくある共同研究は、実験データの解析が、一定の理論的背景と高度なコンピュータ・プログラミングを必要とする場合である。しかしH.B.教授は古い世代の理論家で、プログラミングが全くできなかった。

 

コーヒータイムのアドバイス目から鱗が落ちた、という程度の貢献の場合は、普通は論文の最後に謝辞を述べる程度である。最終著者として論文に名前を連ねることをオファーされる場合もあるが、多くの理論家は、これを辞退する。したがって彼は常に実験と、より緊密な関わり方をしていたのである。

 

ちなみに日本では、自分の組んだプログラムを実験グループに貸し出し、共著者に加わる、という手で業績を水増しする人が、若手に時々いる。これが過ぎると、「他人のふんどしで相撲を取る者」のレッテルを貼られ、キャリアに響く。

 

 

 

謎の能力 

 

優れた理論家に見られるような、先進的なアイデア、驚異的な計算力や洗練された手法、といったものも、彼は持ち合わせなかった。

 

その一方で、基本的な理解は非常に確かであり、見通しと判断力に優れ、バランスの良い研究の進め方が出来る人であった。どのような問題のときに、どのようなアプローチが必要かが、すぐにわかる。まずは最も簡単な方法で、ざっくりと粗い結果を導き、実験データの解釈を行う。これは実験家にとって、大変に助かる。問題によっては、それ以上の高度な扱いを要さず、理論としてもそれで完了してしまう場合がある。そして彼は、結果の妥当性を見分け、軌道を修正する際の判断が的確であった。

 

本格的な理論の論文は、数学的に高度になり、込み入ったやり方をするが、それらを読むとき、彼は私が必ずやるような計算のフォローは、殆どしていなかった。自分が研究を進める場合でも、そのような計算は研究員や共同研究者に任せ、自分ではあまり立ち入らない。もちろん、やれば出来ないわけではないので、検討が必要なときには付き合う。

 

詳細に学んだ理論は博士論文のテーマのみである、と言っていたが、彼は詳細に立ち入らずに、理論・実験を問わず、様々な分野の人と共同研究ができる人であった。実際に私も、彼との共同研究、ディスカッションで、相当に鍛えられ、研究が大きく進んだ。

 

これは引退に近づいた大御所のプレイスタイルである。若い人が真似して出来るものではない。それを彼は、駆出しの研究者の時代からやっていたのだ。そして教室のあらゆる人々が、社交的で興味の範囲が広い彼から、研究上の恩恵を受けていた。そして他大学の人々は、しばしば彼の「引き抜き」を目論んだ。

 

 

 横に知識を広げる教育を批判しながらも、彼の正体は、恐るべき横型人間であった。

  

・・・いや、もしかしたら・・・全く逆かもしれない。

彼は究極の縦型人間であり、興味の向くままに横に足を延ばし、上を見上げれば、縦方向にはいくらでも見通せるだけの力を、密かに養っていたのかもしれない。