浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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英国の虫

 

 

計算する時

 

最初から脱線した話で恐縮だが、物理屋は計算をするとき、多くの記号を使用する。

   

a,b,c・・・i,j,k・・・x,y,z  というアルファベットである。

アルファベットの前半は定数、後半は変数と、用途が習慣的に決まっている。途中の i からnまでの6文字は、整数を表す場合が多い。

 

計算を進めて行くと、途中で新しい変数や定数・関数を表す記号が、次々と必要になる。

小文字も大文字も使用し、大文字は筆記体と立体を区別する。ギリシャ文字も使用できる。α、β、γ・・・ξ、η、ζ・・・幾つかは、大文字も使える。Γ、Ψ、Θ・・・

 

記号はそれでも、すぐに足りなくなる。頻繁に登場する一般的な物理量は、定番の記号が習慣的に決まっているため、標準から外れた記号の使用は混乱を招く(例えば t と書いてあれば、条件反射的に時間と思う)。自由に使える記号はそれほど多くない。

 

 

記号が足りなくなった時、漢字が使えたら良いが・・・と時々思う。平仮名も筆記体として、面白いかもしれない。

「中」など、ギリシャ文字の Φ に似ているので、使えそうな気がする。事実、江戸時代に関孝和は甲、乙、丙・・・などの漢字で未知数を表し、代数学を発展させていた。

 

が、物理学は国際社会の共有物なので、そうも行かない。

 

 

右肩にダッシュを付けると、使用できる記号を増やせる。

x', y',z'・・・x",y",z" ・・・という具合である。

ダッシュは、3つまでは、付けることがしばしばある。

さすがに4つはあまりやらない。

 

 

計算が合わなかった日

 

ある夏の日、計算をしている途中で、辻褄が合わなくなった。この日は、ダッシュを3つまで使っていたが、どうしても、ある記号のダッシュが、どこかで一つ多くなったように思える。どこでそうなったのか、わからない。それとも、どこか考え方が間違っているのであろうか?

 

 

紙面から目を離し、腕を組んで天井を見上げた。

書いたものを見ていると、思考が限定されて、間違いに気づかないことが多い。自分が書いたものに自分が束縛され、堂々巡りになる。そういう場合、多くの物理屋は歩き回るが、あいにく、私に割り当てられたオフィスは狭かった。

 

かなり時間が経ってから、紙面に目を戻し、もう一度最初から、計算を目で追った。すると、先程までダッシュの数が多いと思っていた個所が、問題ない数になっている!

 

いったい私は、何をやっていたのか・・・!?

 

 

唖然として目を擦り、紙面を凝視すると、ダッシュと丁度同じくらいの、非常に小さな黒い虫が、消しゴムのカスの中から這い出して来た。紙を揺らすと、ピタリと動きをとめる。

 

こいつか・・・

 

目で見てもなかなか虫と認識できない、点のような小さな存在に、そのとき初めて気が付いた。虫は大体、急に大量発生するものであるが、良く見ると、その日は机の上のあちこちに、かなりの数の点がある。砂ぼこりに見えていたが、そうではなかった。

 

時間を無駄にした悔しさに、「くそ」と呟きながら、消しゴムのカスとともに虫を払いのけた。すると虫は手に触れ、簡単に潰れてしまった。これには再び驚いた。小バエのように、飛んで逃げると思ったのである。これほど動きが鈍いとは思わなかった。真っ黒な体液がインクのように紙に染み、今度は本当にダッシュを印字したようになった。

 

それ以来、私は消しゴムのカスを払いのけるとき、手を使わず、息で吹き飛ばすようにした。私の父は寺の生まれで(自身は仏門に入らなかったが)、私は子供の頃から殺生を戒められていた。もちろん、知らないうちにダッシュが印字されても困る。

 

 

虫のサイズと動き

 

私はその時に、はじめて、夕方に自転車に乗るときに悩まされていた虫の集団の正体がわかった。

眼鏡をかけ、口をしっかり閉じていないと、目にも口にも入ってくる。鼻の穴に入りかけた場合は、すかさず「フン」と鼻息で飛ばしながら、自転車を漕ぐ。鳥なら、口を開けて飛んでいれば、自然に食料が口の中に入って来るであろう。

 

これほど小さい虫は見たことがなかった。小バエよりさらに小さい。蚊の集団のようでもあるが、飛んでいるというより、霞みのように空中に浮遊している。一匹ずつは識別できず、羽音も聞こえない。

 

  

昆虫は、温暖地域ほどサイズが大きくなり、種類が豊富になる。ゴキブリなど、英国人が見れば、驚きは大きいであろう。アメリカでは普通に見られるので、知っている人は多いと思うが・・・

 

英国人ではないが、ヨーロッパ大陸からの友人が私の研究室に滞在していた時、アブラゼミが低空飛行で彼の方に飛んできたことがあった。この時の彼の慌てぶりは、相当なものだった。超大型のスズメバチの類が襲ってきたと思ったらしい。

 

ちなみに、辞書によると、bee = ハチ であるが、bee は蜜蜂のことであり、それ以外はまとめてwaspと呼ばれる。waspには「ぶよ」のような比較的無害のものから、危険度の高いものまで幅があるが、大声で鳴き、高速で飛行するセミをwaspと思えば、慌てるのは当然である。

 

実はヨーロッパの夏場の気温は、大陸ではかなり高いので、大陸の虫はそれほど小さくない。夏に車で郊外道路を走行すると、フロントガラスに虫が次々に激突し、瞬時に潰れる。頻繁にワイパーを作動させて掃除しないと、前方が見えなくなるので、クリーナーの液がすぐ空になる。日本でも地方では、晩夏から初秋の短い期間、同じようなことがあるが、アルプス地方では、フロントガラスに激突する虫は、むしろ日本より大きく、数もずっと多い。殺生どころか、大量殺戮であるが、これはどうにもならない。

 

 

一方、ブリテン島の気温は低く、夏場でもコートが必要な日がある。英国の虫は大陸よりずっと小さい。

そして、英国の虫は動きが遅い。これも気温のせいであろう。虫と言えば、のろのろと動くイメージがあり、セミのように高速で飛行したり、ゴキブリのように素早く移動する虫を見た記憶がない。最も動きの速いのはハエであったが、これも日本のハエに比べるとかなり遅かった。

 

 

血を吸うハエと血を吸わない蚊

 

所変われば  品変わる  ・・・  虫も変わる ・・・

 

私の住んでいた地方のハエは「吸血バエ」であった。これには驚いた。サイズ的には(小バエは別として)日本の最も小さいハエと同程度で、姿かたちも、ハエそのものである。主に家畜の血を吸っていると思われるが、私もよく吸われた。潰れると、赤い液が漏れる。それ以外の種類のハエは見かけなかった。

 

一方、蚊に血を吸われた記憶は一度もないので、蚊は吸血ではなかったと思われる。時々は私の腕にも止まったが、放置して観察しても、結局何もせず飛び去るので、腕に止まる目的は不明である。見たところは日本の蚊と非常に良く似ており、地元の人々もモスキートと言っていた。

 

 

なお、私は日本でもあまり蚊に食われないので、英国の蚊が私の血を嫌った、という可能性は、無いことは無い。特にオトメと一緒にいると、彼女は何か所も食われるが、私は全く無傷の場合が多い。

 

 

文字通り、私は虫が好かない奴なのである。