浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

~記事へのコメントは歓迎です~

回り道をした人々5(前編)

 

 

ロンリー・ウルフ

 

A君は、私が学部から修士課程の修了まで指導した学生である。その後、メジャーな大学の博士課程に進み、博士号を取得した。

 

 

A君は私の担当科目をすべて履修したが、彼のレポートを添削したことは、ほとんどない。あるとすれば、情報量を落とさず簡潔に書くようにアドバイスして、文章を直した程度である。それも2,3度だけで、すぐに必要が無くなった。

 

このように書くと典型的な秀才のイメージであるが、様子はかなり違っていた。答案やレポートは入学当初から際立っており、注目されていたが、同時に多くの教官は、その完成度にやや怖れを抱いていたように思う。それには、彼の存在感も影響していた。常に一人で行動し、孤高というよりは、一匹狼の雰囲気があった。

 

必修科目の授業で、彼のレポートのコピーが出回ることがあれば、翌年から指導に大きな支障が出たであろう。が、彼には他を寄せ付けない雰囲気があり、そのような目的で彼に近づく学生は、一人もいなかった。

 

 

A君の回り道

 

卒業研究を開始してから間もなく、A君の年齢が実はかなり高い、と言う噂が伝わり、研究室の飲み会の時に、彼は質問攻めにあった。彼は隠すことなく話した。

 

中学を卒業してすぐ、大工の見習いとして3年間働いたそうである。その後、やはり高校は行った方が良い、と考え直して進学したが、私の記憶が正しければ、2年で中退している。

その後、純正品でないプリンターのインクを扱う会社に数年勤めた。使用済みのカートリッジに別のインクを詰めて販売する仕事である。しかし、これが違法か否かが、裁判で争われることになり、A君は会社の将来に見切りをつけ、退社した。結局、裁判には勝訴したが、どちらにしろ仕事は面白くなかった。その後、大学検定を経て大学に進学した。

 

このような経歴を、皆は面白がって聞いていたが、話の経緯から、性格的に集団に馴染まず、押し付けに反発するタイプであることが予想された。そして、恐らくは損得より自分の感情を優先する。

それぞれの転進の節目で、人間関係のトラブル(もしかすると教師や両親も含めて)を伴っていた可能性は高い。しかし、それらについては全く言及せず、事実を述べるだけで感情は覗かせなかった。

 

 

取扱い注意の男

 

このような若者は、強制のための強制で抑え付けると、ろくなことにならない。学校教育からは、ドロップアウトすることが多いのである。私の研究室には、しばしばこのような学生が入ってきた。

 

 もともと精神的なエネルギーが大きい学生は、叱咤激励する必要はない。本人を観察して穴を見つけ、その時その時に必要な学習を指示し、適切な課題を与えれば良い。そして、常に自然な方向に考えることを心がけさせる。

howではなくwhatに注意を向けるように注意すると、最初は少しだけ戸惑いを見せるが、やがて水を得た魚のように自発性を発揮し、成長して行く。私は添削指導によって、このような学生を、数多く見出してきた。

 

N君と同様に、A君は数学的な理解力と計算力が確かであった。そして理系の学生には珍しく国語力・英語力が優れていた。A君には家庭教師のアルバイトをいくつか紹介したが、最も喜ばれたのは国語の指導である。哲学を好み、英語の読解は全く誤訳がなく、完璧であった。 

 

彼の哲学好きや言語的能力は、学習の助けになっていたが、妨げになっていた面もあったかもしれない。

 

物理学はもともと、ギリシャ時代には自然哲学と呼ばれ、実証科学としての性格が弱く、むしろ思弁科学であった。今でも、「科学哲学」を専攻する人々の多くは、物理学をそのように誤解しているふしがある。

 

これは、しばしば若い人を道に迷わせる。若い時にそのような哲学書に接して影響を受けると、思考が実体から離れ、空転を始める。地道な勉強から離れて空論を振り回し、研究者の道から逸れて行った人々を何人も見てきた。A君にはその兆候が少し感じられた。これは早めに芽を摘み取っておく必要がある。

 

 

指導教官との類似点による困難

 

私は哲学にはあまり興味が無いが、物理屋のタイプとして、彼は私に似ていた。学生は良くも悪くも教師の影響を受けてしまうので、それは私にとって、指導上の課題と言えた。

こう申し上げては大変に不遜であるが、私自信も、御指導いただいた先生との類似点があったと思う。そして先生も、その危険性に気付いておられた。

 

 

A君は、私が拘りをもって指導する部分の吸収は早く、修士課程の終りごろは、下降気味だった私の計算力を上回り始めた。物理的な理解も、まずまずであった。

しかし私と同様、コンピュータによる数値計算を好まず、また哲学的な性向から、実験と直結する具体的な研究より、抽象的で原理的な問題に関心を持つ傾向があった。 

 

私が数値計算を多用しなかったのは、私自身の好みもあるが、かつては、コンピュータワークに頼りきった研究は、高い評価が得られない、という事情も背景にあった。

今は背景が異なる。今の世代にとって、それは基本的な研究手段の一つであり、必ず身に付けなければならないものである。そして、思考の空転を防ぐには、具体的な仕事、とくに数値計算は最適である。

 

しかし、自分が身を入れて来なかったことについて、重要性を言葉で強調しても、説得力が伴わない。

そこで卒業研究は、最初に読むべき数編の論文と、研究のターゲットを示し、あとは自分でやらせた。彼が得意とする紙と鉛筆の計算力が生きるテーマだが、最後は実験と比較し、多少の数値計算が必要となるように仕組んだ。 

 

 

大学院の修士に進んでからは、より原理的な問題にチャレンジさせたが、手法として、かなり巧妙な数学をベースとした大規模な数値計算を試みさせた。

 

若い時に数値的な仕事を続けさせると、思考の空転は防げるが、逆に思考を停止させる危険も生じる。バランスが重要である。この計算には理論的な背景の勉強が大きな部分を占めたので、その点の心配は少なかった。

  

 

この段階では、まず研究室の計算環境をヴァージョンアップする必要があった。そこで、私は彼に空っぽのワークステーションを与え、OSからはじまり、科学計算用のコンパイラをインストールして、さらにフリーソフトのみによって、計算からグラフの表示まで、一連の流れを構築する仕事を任せた。 

  

予想されたことではあるが、彼はこの「学問として本質的でない」作業を嫌がった。

彼が従順に従ったのは、プログラミングまでである。

 

「計算機の管理ができない理論屋には、永久に仕事は無いぞ!」と私は言って、無理やりやらせた。

 

この言葉に偽りは無かったが、これは教育ではなく、ほぼ性格の矯正と言える。彼には必要なことと判断した。

 

彼に叱責を与えたのは、この一度だけであるが・・・

 

中編に続く)