英国人の読解力と国語教育2
前回より続く
語学研修の体験は、笑い話として済ますわけには行かなかった。私と家族は、この社会の一員として、生きて行かなければならない。このとき、私は英国に永住する覚悟であった。こんな行き違いが頻繁に起こっては、大変に危険である。 真相を確かめるべく、私はY教授に教材を見せて意見を求めた。
Y教授の解説
Y教授の意見は次のようなものであった。
「個人的には、タローの答えは正しいと思うが・・・英国では、このような
場合には、書かれている通り答えなければいけないと思うよ」
私が怪訝な顔をしていると、
「一般に私たち英国人は、他人の心の中に立ち入ることを戒める。子供たち
にも、人が自ら口にしたことは、そのまま信じなければいけないと教えて
いて、その点は家庭でも学校でも、かなり厳しく躾ける」
と続けた。 学校では文学作品などをどのように教えるのか、と尋ねると、きっぱりと「教育の現場では文学は取り上げない」と答え、「文学の解釈はプライベートなものだ・・・」と呟いた。
心なしか、彼の最後の呟きには、微かに不快感が混入している気がした。
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様々な機会に彼の人格に触れてきた私にとって、Y教授の言葉は説得力があった。
「他人の心の中に立ち入ることを戒める」という言葉に、日頃の行いをたしなめられた気分になった。確かに日本語にも、「邪推」という言葉や「下衆の勘ぐり」という表現があり、これを戒める精神はある。
彼は敢えて「個人的には・・・」と自分の考えを明かして解説してくれた。真の理由は、解った人が自分の胸にしまっておけばよい、ということか。
これは、人間同士の関わり方について、本質的なテーマを提示しているかもしれない。
しかし・・・である。デリケートな会話の練習において、背景の理解を共有せずには、授業は成り立たない。「他人の心の中に・・・」といっても、作り話であり、架空の人物である。教材製作者の意図は、私には明らかに思えた。
仮に私が、
「奥さんの料理が上手で食事が美味しい、と彼は言っていますが・・・
・・・どうも文脈は、別の理由を示唆しているようですね」
と言えば、教師はニヤリと笑って、「イエス!」と言ったのであろうか?
そうとは思えなかった。もともと、表と裏を使い分ける国民ではない。彼は本気で「奥さんの料理」を真の理由と考えていた節がある。子供の頃から、文字通りの意味しか考えてはいけない、と教えられ、それをすべてにあてはめる習慣が身に付いてしまったのではないか・・・
これ以上はY教授に聞くことはできなかった。そして、その後、似たような場面に、何度か遭遇することになった。
そのひとつを紹介しよう。
編み物をする少女の話
「編み物をする少女」という、フランスの安作りのドラマがテレビで放映されたことがあった。会話はフランス語であるが、字幕スーパーが出るので、これは会話表現の勉強になる。しかも、フランス物は言葉の数が少ないので、スーパーの字をゆっくり追える。
内容は陳腐であった。名門の私立大学に通うエリートの学生が、貧乏な階級の娘に恋をして、結婚を考えるが、学友の仲間達に説得され、彼女に別れを告げる。彼女もすんなり、別れを受け入れる。
その後、彼女が体調を崩して故郷に帰り、入院した、という知らせを聞き、心配になった男は、田舎の病院に彼女を見舞う。彼女はベッドで編み物をしていたが、彼が病室に入るとそれを毛布の下に隠す。「何も心配ない」と笑顔で話し、最近行った旅行の話など、何でもない会話をして、男を安心させて別れる。
そして、彼女は編み物を続けた。編み物は、生まれてくる子供のためであったが、学生はそれに気付かず、病院を後にする。
英国は、テレビ局の数が少ない。その上、何も放映されていない時間帯が長い。ドラマの制作も数が少なく、古いものを何度も再放送したり、たまに海外から買ってくる。そのため、再放送でないドラマが放映されると、翌日は人々との会話で、必ず話題にのぼる。
その頃、私たちはキャンパス内のゲストハウスを出て、郊外の住宅地に住んでいた。「編み物をする少女」も近所で話題になったが、彼女が何のために編み物をしていたか、口にした人は一人もいなかった。
「かわいそうに、彼女は気が狂ってしまったのね・・・行ったこともない場所の話をしたりして・・・」などと、何人かが話していた。
他人の心の中に立ち入ることを戒め、本人が口にした言葉をそのまま信じる、というのは、社会道徳として素晴らしいと思う。これを貫く社会は尊敬に値するが、一方では程度問題という気もする。程度が過ぎれば、文学など成立しなくなる。実際に「教育の現場で文学は取り上げない」というのだから、英国人は徹底している。
多くの人々は解っており、「胸の内にしまっている」だけなのか?
誰も胸の内を語らなければ、「そうだったのか」と悟る機会もない。
ちなみに、「本人が口にした言葉はそのまま信じなければならない」というのは、ヨーロッパの多くの国々で、通用しないようである。「嘘も方便」が日常化して、人が述べている理由を、互いに全く信用していない国もあった。