浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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英国人の読解力と国語教育3

前回までは言葉から情報を受け取る場合の話をしてきたが、情報を発信する場合の話を少し書こう。  

 

 

日本の憂鬱なマニュアル

 

私は、研究でコンピュータを使わなければならないことがある。しかし正直なところ、若い頃は、出来ればこれを避けたいと思っていた。

 

科学計算のプログラミングは特に嫌いではない。経験を積まなかったため、達者にはならなかったが、自分は向いていないとは思わなかった。 

避けていた理由は色々あるが、最大の理由はマニュアルである。

 

 

当時はパソコンやワークステーションが登場する以前で、大型汎用機の時代であった。 

膨大な人数が、一台を共有し、同時作業で多くのタスクが処理される。 

 

現在のように、アイコンをクリックしてプログラムを起動させたり、ドラッグ&ドロップでファイルの整理ができるというような、便利な機能は備わっていなかった。 

すべては、キャラクターベースで、コマンドを打ち込んで処理される。

これを、計算機センターに出向き、端末から行う。

 

 

プログラムファイルの編集は、行単位で行われる。

一つの命令文を修正するだけでも、「修正個所の範囲の指定」、「置き換えるべき内容の入力」、「結果の表示と確認」に分けて、それぞれにコマンドの入力が必要である。

 

プログラムをコンパイルするにも、走らせるにも、データファイルをリンクさせるにも、多種多様なコマンド(=おまじない)を覚え、これをキーボードから打ち込む。

 

 

 

勤務場所を変える度にシステムは変わる。その都度、膨大なマニュアルと格闘し、間違いを繰り返し、多くの時間を無駄にする。

 

そのマニュアルは、到底読める代物ではなかった。

敢えて言うが、当時の技術系の人々の作文能力は、ひどいものだったと思う(現在はかなり改善されているようだが)。

 

作文能力だけではない。講義やプレゼンテーションなども含め、理系の人々は情報発信能力が低く、テレビなどでは使い物にならない人々が大半であった。変人扱いされても、無理はない。

 

マニュアルについて言えば、例によって「何の話か」が、全く書かれていない。

 

「どうやるか」に徹して書いているなら、まだ良いのであるが・・・ 

必要もない、意味不明の説明が、「どうやるか」と混然一体となっている。

伝える情報に明確な意思が無く、徒然に筆を走らせている。

 

文章は、「てにをは」すら怪しい。

 

専門家でしか解らない、耳慣れないカタカナ用語をふんだんに使う。どのような人々が読むのかを、一向に気にしていない。

 

しかも、用語の大半は説明がなされず、推測するしかない。説明される場合も、ずっと後になってからである。

 

一般に、最初に説明べきことを、ずっと後になってから記述するような書き方を、平然とする。

 

 

ずいぶん愚痴を並べたが、ここに書いたことは、私の抱いていた不満のごく一部である。

 

 

 

 

逃げられない事態

 

 

本来なら喜びの瞬間のはずであるが・・・気分は落ち込んだ。

  

      ・・・  終った  ・・・

 

 紙と鉛筆の戦いに、ようやく勝利した。 遂に目的の方程式を導いた。

 

しかし、これは私にとって、次の戦いの始まりを意味していた。

 

英国に渡って以来、キーボードに一度も触れず、紙と鉛筆だけで何とか論文を書き、職を繋いで来た。

 

・・・が、今度ばかりは、そうは行かない。結論には120%の自信を持っていたが、この方程式を数値計算で解き、グラフを示さなければ、論文は受理されない。 

この問題を手掛けた以上、コンピュータとの格闘が避けられないことは、最初から分かっていた。モラトリアムをやっていられる余地は、もう机の上には残っていない。

 

 

比較的簡単な計算である。昔書いたプログラムの一つをベースにして、少し書き加えれば良い。計算そのものは、1週間で終わるだろう。幸い、自分の作成したプログラムは、重要なものはすべて持ってきた。

 

しかし、紙媒体であったので、自分の手で打ち込まなければならない。これは、ウンザリする作業である。さらに、それより大きな問題は、その前に、おぞましいものを読まなければならないことであった。

 

マニュアルを・・・しかも英語で・・・

 

そのため、私は折角の完成目前の研究を、しばらく中断させていた。いつまでもレポートに取り掛からない学生の心境に近かったと言える・・・

 

 

(続く)