浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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英国人の読解力と国語教育4

 

 

 

 

 前回から続く

 

・・・コンピュータのマニュアルを読むのは気が重く、私は完成目前の研究を、しばらく中断させていた。いつまでもレポートに取り掛からない学生の心境に近かったと言える・・・

 

 

 

快適なマニュアル

 

 

そうこうしているうちに、夏休みに入り、Y教授の研究室に、米国のA.M.教授が滞在することになった。

 

Y教授の長年の友人であり、共同研究者である。彼も計算センターに通い、数値計算を始めるとのことで、私はこれ幸いと同伴し、2人で椅子を並べて端末に向き合うことにした。

色々と教えてもらうことができるだろう。訳のわからないマニュアルを読むより、人から直接、やり方を教えて貰うに限る(これも某大学の学生の心境に近い)。

 

 

計算センターに足を運ぶのは初めてであった。行ってみると、マニュアルは、初級・中級・上級に分かれて、受付に置かれていた。M教授が初級を手にしたので、私はがっかりした。私と大して変わらないレベルなのか・・・

 

 

 

2人とも端末の前に座り、しばらく無言で読み入った。

 

読んでみると、意外と読み易い。平易な文章で、何よりも「何の話か」の説明が最初にあり、概観がしっかり掴めるのが助かる。

 

次に、コマンドの使い方が、例を用いて示されている。聞いても役に立たない不要な解説は無い。使用例の選び方と提示の順序が大変適切であり、自ずとコンセプトが理解される。

 

私が使うような初等的な例は、大体最初の方に書いてあり、そのまま借用すれば、すぐに仕事にかかれる。初級から上級までの区分けも見事であり、解説は必要度に応じて与えられている。想定されるレベルで不要なことは、一切書かれていない。

 

 

 

    「タロー、この説明書を、どう思う?」

 

とM教授が聞いた。

 

    「日本のものより、ずっと読み易くて、びっくりした」

 

と答えると、

 

    「全く同感だ。アメリカのはひどい。何が書いてあるのか、

     さっぱり解らない。日本のマニュアルもひどいのか  ・・・

     アメリカの翻訳かもしれないな」

 

    「マニュアルに限らないが、イギリス人の書くものは、非常に

     読み易いな。Y教授とも良く話すが、彼等の科学教育はなって

     いないが、国語教育だけは世界最高水準だよ・・・」

 

 

理系の文章力がダメなのは、日本特有なのかと思っていた、と話すと

 

    「いや、実は・・・アメリカの場合は、理系はましな方だ。役人

     の文章が最もひどい。政府が色々やっているけれど、効果が

     さっぱり上がらない。政府の公文書なんか・・・コンピュータ

     のマニュアル以下だよ」

 

 

 

この話は、その時はあまり信じられなかったが、後に日本の物理学会の会員誌で知った。米国に長く在住している日本人の教授が、「日本人の論文の英語を良くするために」と題して寄稿していた。米国では、公文書の質があまりにも悪いので、政府は例文集を配布し、そこに載せている構文以外を使用しないように、と官僚に指導しているという話が書いてあった。高度な構造の構文が見事に分類・整理されているとのことで、彼はこの例文集の利用を論文の執筆に勧めていた。

 

ちなみに、この例文集は、私は見たことがない。記憶が正しければ、例文は5000程度あるとのことであった。2000の間違いかもしれないが・・・いずれにしろ、「冗談じゃない」と思ったのを覚えている。

 

まあ、「上手にやりなさい」ということであろう・・・

 

 

 

英国の国語教育

 

数値計算に不安は無くなったが、英国の国語教育が素晴らしい、という話は初耳だった。

 

Y教授との会話以来、私は英国の国語教育はむしろ貧しいと考えていた。教育の現場を見た訳ではないので、想像ではあるが、Y教授の話では、文学など最初から無視している国民である。ただ、英国政府が国語教育に最も力を入れている、というのは事実らしい。

 

 

しばらく暮らしていて気が付いたのだが、英国人の文章には、共通の特徴がある。

 

まず何の話か、必ず概観を最初に述べる。この点は英国人に限らないが、英国人はより厳格な感がある。最後になってようやく、何の話か判る・・・というような書き方は、決してしない。最初の数行で何の話か判らなければ、人々は読むことをやめてしまう(プレゼンテーションであれば、最初の数分で座長が止めて注意する)。

 

そして、段落ごとの主張をはっきり示し、全体として、前提・説明・結論の流れを明確にする。頭と尻尾だけ飛ばし読みすれば、話が解るようにするのである。中間の説明は、必要に応じて読めば良い。

 

文脈は特に重要である。「しかしながら」「ところが」「なぜなら」「したがって」などの、論理的な関係を示す接続詞を殆ど書かない。文脈のみでそれがわかるようにする。それだけに、段落分けとカンマには厳しい。論文などで、カンマの位置ひとつで文脈を取り違えられると、編集部は文章ではなく、接続詞が不適切と判断し、「しかしながら」を勝手に「したがって」に変えて印刷に回したりするので、校正には非常に気を使う。

 

 

恐らく彼等の国語教育は、情報を伝える手段としての言葉の教育に徹しているのであろう。文章から情報を正確に読み取り、また書く場合には、伝えるべき内容を取捨選択し、しっかり構成する・・・このような教育を、徹底して行っていると予想する。この文章スタイルは、学術的な文献から行政の広報、商品の宣伝に至るまで、共通している。

 

もはや工業国家としては見る影もなかったが、英語が国際語となっている強みを生かし、この国語教育が、彼等のビジネスを支えていたのかもしれない。マニュアルの出来栄えが示しているように、 その点では彼らの国語教育は、確かに成功だった。そして、これはビジネスだけでなく、市民生活を支えてきた。

 

その結果かもしれないが、彼等は、言葉で人の知性を見定める傾向がある。社会人として信用を得るには、話の組み立て方や、手紙の文章力を鍛えなければならない。

 

 

私は秘書さん達に、手紙の文章表現をよく教えてもらい、助けてもらっていた。中等教育を終えたばかりの女の子が、しっかりした知的な文章を書き、面倒な内容でも簡潔に伝える訓練が良く出来ている。また上手に「婉曲な表現」も使い分ける。まことに頼りになった。

 

なお彼女たちは、大学の掲示物や「お知らせ」の配布物の文章も手がけていた。このような文章は単なる情報伝達文ではなく、英国人のスピーチと同様、なかなかウィットに富んでいる。

 

秘書さんの一人が、婚約者の転職にともない、自分も転職して同伴することになった。送別会が催されたが、案内文は

 

  「我らが美しき蝶  ## 嬢は、ネオンを求め、ロンドンに飛び去ります」

 

というような表現であったと記憶する。

 

 

 

余談: 文学の国からの便り

 

このシリーズの初回、および第2回に、「言葉を情報の伝達手段とのみ認識すると、どうなるか」という話を書いた。そこに書いた程度であれば、異文化交流の笑い話と言えるが、次の例は、いささか深刻である。

 

 

Y教授はある時、日本に帰国した研究員の母親から、手紙を受け取った。手紙は、息子が世話になった御礼、また自分が息子を訪問した際に受けた「おもてなし」の御礼をしたためていた。

 

英語は良く書かれていたが、教授夫妻はそれを読み、この御婦人が心を病んでしまったと思った。

 

いきなり天候の事が書かれているなど、余りにも混沌としていた・・・と話していた。

 

実はこの話は、私の前任の日本人研究員から聞いて、すでに知っていた。彼が手紙を読ませてもらったところ、心のこもった日本流の手紙文で、原文がそのまま判るような直訳の文章だったそうである。誰かが手伝って英文にしたものと思われた。「時候の挨拶は日本人の習慣であると説明し、Y教授には納得してもらった」と私は聞いていた。

 

・・・が、Y教授と夫人は首を振り、

 

  「時候の挨拶の話は彼から聞いたし、日本人の習慣は私たちも

          心得ている。彼は、文章を読んでも彼女の心の病いに気が付か

          なかったようなので、私達は敢えてそれ以上話さなかった・・・」

 

と語った。「最初の数行で何の話か判らなければ、英国人は読むことをやめる」と書いたが、Y教授夫妻は、最後まで慎重に読んだそうである。

 

 

 

日本の男女は平安の昔から、和歌の遣り取りで思いを伝えていた。

 

秘められた意味こそが真実である世界の住人と、言葉をそのまま信ずることを善とする人々とのコミュニケーションは、これから百年先でも、まだ難しいかもしれない。

 

 

「言葉の重要性」に関連して、日英の幾つかの例を、個人的な視点からお話しした。

次回は、英国人が日本人の言語習慣をどのように見ているかについて、お話ししようと思う。「日の昇る国への羨望と失望」と題して執筆中である。

  

  

(続く)