浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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言葉の重要性5-現代国語と高校生(前編)

 

  

 

 このシリーズは「言葉の重要性4」の続きであるが、その間、ひとしきり英国の国語教育について話し、また「日の昇る国への羨望と失望」で、英国人が日本の国語教育に対して抱いている感情について紹介した。

 

ここで日本の国語教育について、少し考えて見たい。

 

 

 

「解釈」を成績評価とすべきか?

 

私は文学を教育現場で取り上げない英国の初等・中等教育について、あまり肯定的でない意見を述べてきたが、正直なところ、私は子供の頃からずっと、英国人と同様に、日本の国語教育に対しては違和感を持っていた。

 

他人の心の中に立ち入ってはならない」という理由とは少し違う。人の心を知る教育を否定するつもりはない。文学の解釈を教えるのは大変結構である。

 

しかしそれは、Y教授の言葉どおり、基本的には個人の判断に属する、ということを前提にすべきで、自由度のあるものでなければならないと思っている。これを成績評価の対象とするのは、いかがなものか。極端な意見に聞こえるかもしれないが、ある種の思想統制、少なくとも「同調圧力」のレベルの気がする。

 

 

赤いシャツを着ている男を見て「キザな奴だ」と思うのは個人の勝手である。しかし、赤いシャツを着るのもまた、個人の勝手である。好みの問題に「多くの人がそう思っている」という多数決を適用してはならない。 好みは、それぞれの人生経験によって変わる。

 

そして文学は、このような「多数決」をベースにしている側面がある。

「坊ちゃん」に教頭を「赤シャツ」と呼ばせることで、著者の漱石が教頭の性格を表現しているという解釈には、私も一票を投じる。それを学校教育で教えるのも良いことである。が、育った環境が異なり、その判断ができない帰国子女に、「国語の能力」として負の評価を与えることは、不適切である。帰国子女だけではない。「男の赤シャツ=キザ」と考えなければ正しくない、という同調圧力は倫理に背く。人それぞれの人生経験は尊重されるべきであり、否定されるべきものではない。

  

 

 

入学試験の「現代国語」

 

とくに「現代国語」の入学試験の有り方には、多くの疑問がある。RSTの問題文は誰が読んでも変わらないように明確に書かれているが、そうではない文章に対して、正しい「解釈」があるとして、公的な権力を背景に人を評価し、合否を決定する・・・

これは、たとえ著者自身が行っても、権力の乱用に思える。読者の解釈が著者の意図と異なっていても、それは多かれ少なかれ、著者にも責任のあることである。

 

 

受験生時代、模擬試験などを受けた時に、出題者の書かせたい答えが次第に見えてくると、「ソレハオマエノ考エダロ・・・自分ト違ウ考エナラ、バツニスルツモリカヨ・・・」と反抗したくなり、敢えて挑戦的な解答を書くことがあった。出題者をドキリとさせて、一矢報いたくなるのである。

 

 

模擬試験ならそのような遊びも良いが、本番の入学試験ならどうするか・・・

 

受験するつもりだった大学は、そのような問題を出題する可能性が大いにあった。挑戦的な解答を書いても楽勝で合格できる自信は無かったが、当時の私は(今でもそうであるが)、人生の重要な場面で、損得より心情を優先してしまう傾向が強かった。損得を優先することを、潔しとしないのである。その時になって自分がどう反応するか・・・自分でも予想がつかなかった。

 

心配は現実のものとはならなかった。その大学の入試は、大学紛争のため中止となり、受験した大学は「情報を正しく伝える手段」としての国語に徹していた。 「こんな問題を出題する大学もあるのか・・・」と、試験場にて、やや驚いた。

 

ちなみに、古文も漢文も出題されなかった。古文は古代言語として興味を持って勉強していたので、個人的にはやや寂しかったが(私は理論物理でなければ、言語学を専攻したかった)、これらを入学試験の科目から除くことに、私は賛成したい。これは、また別の理由からであるが・・・

 

ちなみに、ヨーロッパの各大学は、かつて入学試験にラテン語を課していた。私が滞在していた当時、英国ではオックスフォードとケンブリッジだけ、まだ続けていたが、半世紀ほど前に、殆どの国で廃止されている。

 

 

 

話がそれたが、現代国語の入学試験については、解釈以外の点でも、出題者の独善的な裁量に、多くの疑問を感じていた。

 

私の受験が終わってから数年後に、これは私が受験を予定していた大学だったと思うが、ある哲学者の書いた文章を「段落分け」させる入試問題が出題された。

 

ある新聞記者がこれに挑戦したところ、彼の解答は発表された正解と異なっていた。納得できなかった記者は、著者を訪問し、確認したところ、書いた御本人は首を捻り、「出題されている範囲では、段落分けなど出来ない」と答えられたそうである。無理に頼んで試みてもらったが、発表された正解とは全く異なっていた。  

 

この事件は記事にされて有名になり、その後、各大学は「段落分け」の出題を控えるようになった。著者が「違う」と言ってしまえば、大学の権威は失墜する。出題はリスクが大きい。

しかし、これはむしろ後退である。段落分けは文章の構成力の問題であり、適切な問題が出題されるなら、良い問題形式と言える。

単に出題者が能力不足だったのである。点差をつけるために難しくしようとして、そうなってしまったのであろう。

 

もともと「はっきり書かれていない」ことの理解度を評価の対象とすることは、段落分け以上にリスクを伴う。存命中の著者が「発表された解答は私の意図と異なる」と言えば、反論は不可能である。

著者が故人の場合でも、あるいは出題者と著者が一致していても、「正解」は多くの人々が納得するものでなければならない。得点差がつく「難問」になるほど、この点が怪しくなるのが、現代国語の宿命である。

 

 

 

 

その後も混乱が続いた「言葉による試験」

  

この頃、代わって登場したのが「論述試験」である。

ただ、これは現代国語の試験として行われたのではなかった。

何かテーマを与え、それについて自由に作文させ、採点する。例えば今なら「自然災害」など、時事的な問題もテーマとなり得る。そのような触れ込みであった。

 

採点の基準や方法はどうするのか、という点に関心が集まった。

これを最初に導入した某国立大学の事前説明には、唖然とした。客観性・公平性を確保するため、内容について主観的な採点は行わず、言及すべき事項をあらかじめ幾つか決めておき、それに関する記述やキーワードが含まれていれば加点する・・・という方式だそうである。

 

 

この人達は正気なのだろうか・・・と耳を疑った。

解釈どころではない。発想にまで「正解」と「不正解」が存在する・・・

恐ろしい考え方である。これを平然とテレビで告知する神経に、私は寒気がした。

 

 

 

教員全員が賛成したはずはないが、初めての試みであり、客観性・公平性についての批判が噴出することを恐れたのであろう。実施を決めたものの、採点者によって結果が変わる試験では、世間は納得しない。また、採点で予想される時間的・労力的な困難さも、教員の心を後ろ向きにした。

 

 

自分自身も大学に勤めるようになって、似たような場面にしばしば遭遇した。実施を決定してしまってから、人々は困難さにようやく気付く。そして、計画の本来の目的が失われるような方針を、実施段階で決めてしまう。その時、誰も反論できない馬鹿げた原則が、本質的な諸点を押しのけて優先される。

  

公平な入学試験と言うのは、(日本の社会では)誰も反論できない金科玉条である。したがって、誰も声に出して言わないが、実際にはこれは幻想である。 

同じ問題を出題し、同じ基準で採点すれば公平である、ということにはならない。短時間の試験で、少数の限られた問題を解答させる方式そのものが、すでに(確率的にではあるが)公平性を破り、個人個人の学力や適性を正確に測ることを不可能にしている。

 

完全な客観性・公平性が可能であるという前提で、これを追求すれば、入学試験の問題は不適切なものに変貌して行く。

自由に記述させると言いながら、あらかじめ発想に「正解」を決めておき、それに合致する解答だけに加点する・・・

誰が採点しても変わらない、という見かけ上の公平性だけを残し、実際には不公平は大きく拡大している。偶然性による不公平に加えて、出題側の恣意的な事前裁量が加わり、不公平や不適切を通り越して、不正と言うべきレベルである。そして文章によって論説力、構成力などの思索的能力、情報発信力を評価しようとした当初の目的は、消し飛んでしまった。

   

不可能なことを可能と断ずる・・・

 

無理が通れば、必然的に道理は引っ込む 

これは戦前、「大和魂さえあれば竹槍でも戦車に勝利できる」と断じた金科玉条に、誰も公然と反論できなかったことに似ている。それが、見かけ上の公平性をアナウンスする大本営発表を招く。

 

 

最近の方向性

 

現在では多くの大学で、文系科目を中心として、科目別に論述試験の形式が取り入れられており、採点方式も改善されているようである。

 

知識の正確さや論旨の明確さが評価の対象となり、結果的にこれは、理系科目で昔から行われている(マークシート方式でない)記述試験に近づいてきた。実際に、物理などでは、ほぼ通常の記述試験を「論述形式」と呼んで実施している大学がある。

 

説明文や図解なども評価の対象として、通常の試験を充実させて行けば、すべての科目の試験は、言葉の試験としての役割も十分に果たす。すべての学問は、言葉による情報交換の上に成り立っている。「現代国語」が、情報を正しく伝える手段としての言語の教育を妨げないことを願う。

 

(続く)