浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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言葉の重要性7

 

 

前回から続く  

 

  

 このシリーズで初回の記事以来、私が問題にしてきたテーマは、言葉における「確かな情報伝達」と「秘められた意味」の問題である。英国では前者に、日本では後者に重きが置かれ、そのために、それぞれ問題が発生している。

 

 

 

入学試験と読解力の関係

 

他の国の事はどうでも良いが、RSTの調査で明らかとなった日本人の読解力の著しい劣化は、情報伝達としての国語教育を軽んじてきた結果であることは、間違いないと思われる。

 

私は、秘められた意味を学力評価の対象とすることは不適切である、と主張してきたが、これは入学試験の公平性を重要視するからではない。 入学試験に出題される問題が不適切であれば、若い人々に不適切な勉強を強いることになるからである。

 

国語教育ばかりが原因とは言わないが、実際に人の言葉や書かれた文章から、情報をしっかり受け取ろうとしない人々が多い。一部の人々は、むしろ「裏を探る」ことに熱心で、人の言葉を曲解する習慣が身に付いてしまっている。

 

 

 

このような習慣が身に付いてしまうと、少なくとも理系の学習には大きな障害となる。言語的な能力の低下が学習の障害になっていることは、かなり以前から指摘され、「国語が大切」と叫ばれてきた。しかし「受験の国語」は、下手に勉強すればするほど、悪影響も大きい。

 

理系教育の問題については、以前から多くを書いてきた。文章を文字通り読み進む習慣を失えば、学習そのものが成立しない。定義や説明を読み飛ばし、やり方だけ覚えこもうとするのも、その結果なのかもしれない。

 

 

 

社会生活における障害

 

言語的な能力の低下の学習への影響は、理系に限らないと思うが、言葉の「裏を探る」ことに熱心な人々は、言葉の真意は常に別のところにあるとすら、考えているようである。実際に社会では、そのような場面が少なくないことは事実であるが、そのような社会の在り方も、国語教育と無関係ではないような気がする。まさに「秘められた意味こそが真実」である。

 

 

つまらない例で恐縮だが、私は勤めてから間もなく、大学案内の編集会議に、委員として出席した。大学案内とは、受験生に向けての広報活動の一つで、要するに大学の宣伝のためのパンフレットである。各学部はそれぞれ、魅力的な内容を掲載するように努力する。

 

私は、自分の学部を紹介する文章の原案に「自然科学は国際的な学問です」と書いた。この一文に、他の学部の委員は強く反応し、「我々の分野が国際的でないと貶めるつもりですか」と、口々に苦言を呈し始めた。

 

 

常にそのような読み方をしていては、さぞ疲れるであろう。

  

  「教育は国の将来の・・・」  

  「農業は食糧生産という社会の基本を・・・」

 

これに対し、

 

  「我々の学部は国の将来に関係ないと言うのか」

  「社会の役に立たないと言うのか」

 

などと互に足を引っ張っていれば、何も書けなくなる。捻くれた読み方をするのは個人の勝手であるが、それによって他人に余計な気を使わせ、時間を使わせるのは大きな迷惑である。

 

そのコストは結局、自分達が支払わねばならない。そのロスは大きい。

理系人間はしばしば、そのロスを受け入れるだけの包容力と時間を持ち合わせず、人々と対決して早々と「けり」をつける道を選ぶ。私もそのように行動した。

 

そして理系人間は、争いを最小に抑える「国語力」を持ち合わせない・・・

 

が、幸いにも、私の場合はすぐに終わった。着任早々にもかかわらず、物理屋というだけで、すでに危険人物扱いであり、人々はすぐに引いたのである。

 

 

 

ちなみに、この大学案内は、教員の情報発信能力を試すものと言えたが、その出来栄えは惨憺たるものであった。

まず学部ごとに、同じページ数を割り当てる。次に学部に持ち帰り、学科ごとに同じページ数を割り当てる。この段階で割り当ては1ページになっている。スタッフ1人と用務員2人だけの研究施設も、学科と同じ扱いである。その1ページに学科の紹介の写真が載せられ、教育理念を格調高く謳った名文が添えられる。残りのスペースを研究室で均等に・・・ 

 

私は編集方針を全面的に見直すことを主張したが、全学のレベルでも学部のレベルでも「前任者のメンツを守る」意識が強く、認められなかった。そして、残りの僅かな行数は、それぞれの研究室の内容紹介で埋められた。

 

 

受験生が知りたい情報を記載できる余地は殆ど無い。読む人々のための冊子ではなく、大学内の縄張り争いと自己顕示の場になっている。何の得があろうか。

図書館や体育館など、共通の施設の写真は載せられているが、受験生や父兄に必要な情報は、むしろ外食産業など、大学周辺の生活の便、近隣のアパートの家賃水準、学食の質、課外活動(部やサークル)の種類、卒業生の就職先、大学院への進学実績などであろう。女子学生にとっては、トイレの清潔度なども重要である。

 

小難しい文章だらけの「学術的」な大学案内は、誰も手に取って読まない、と県内や近県の高校から毎年、注意と苦情が寄せられていたが、「学問に興味を持たない者は受験しないで良い」などと、大学側は強気であった。結局、大学案内を作成する、という仕事自体が無意味になっている。大学人の多くは、受験勉強で国語力を鍛えていたと思われるが、少なくとも情報発信能力の鍛錬として、これは役に立たっていない。

 

30年を経て、18歳人口の低下により受験生の確保が難しくなり、ようやく大学案内は多少改善された。その頃にはホームページの方が、ずっと重要な広報の手段となっていたが・・・

 

 

 

RSTによる国語試験の提案

 

最近は現代国語の入学試験問題に疑問を呈する発言が、昔より頻繁に聞かれるようになった。しかし、明確に書いていない著者の真意を問うという姿勢が変わらない限り、この問題はきりがない。 

 

私は、RSTの調査結果が圧力となり、日本の国語教育の抜本的な見直しに繋がることを期待している。 

RSTを入社試験に利用する企業も出ているそうであるが、高校や大学の入学試験での使用も、十分に検討に値する。内容までは覚えていないが、私が受験した際の入試問題は、実際にRSTの問題に近かったような気がする。

 

この程度の問題ではほとんど点差が付かず、入学試験に課す意味が無い、という意見が、難関大学からは聞こえてきそうである。しかし、それで良いのではないか。点差をつけたければ、個々の問題は容易であっても、量を増やし、短時間に情報を整理する能力を見るなど、色々と工夫できる余地がある。

 

現実にRSTの正答率がここまで低ければ、正しい情報伝達を教育目標にはっきり掲げ、底上げをする必要がある。例えばセンターテストでこれを実施することは、一つの方法である。

 

 

 

文学の国から脱却せよ、と言っているのではない。入学試験は情報を正しく伝える国語教育に徹し、文学については、音楽や美術と同様に扱っても良いのではないか。

音楽も美術も、入試科目には無いが、日本は高い水準にある。それによって、日本の言葉の文化が後退することは、決して無い。

 

そして私の予想では、社会での無用な摩擦も、相当に軽減されるであろう。