浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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無意味なことをする理由・させる理由(2)

(1)から続く 

 

 

初回の記事に戻るが、セミナートークにおいて

 

 ・予備知識がなければ理解できない話をする。

 ・聞き手の集中力が切れてからも、だらだらと話を続ける。

 ・形式美に手間をかける。

  

彼等の基準では、いずれも無意味な行為である。 

 

 

 

習慣による無意味な行為

 

ケンブリッジに滞在していた日本人の実験家と知り合いになり、この件について話す機会があった。彼も英国人の徹底した実質主義に、最初は戸惑った、と話した。

 

研究所内でチームを組み、ある温度範囲で、少しずつ温度を上げながら測定をしていたが、議論に必要な温度の上限は、ある中途半端な数字であった。

 

その温度に達した時点で、当然のようにチームは解散された。が、彼は切りの良い温度まで、その日の残りと翌日の午前中を使い、測定を続けた。誰も仕事に加わらず、変な顔をして見られたそうである。

 

    「無意味だと言われれば、確かにそうなんですけれど・・・

     どうして日本人は、やってしまうんでしょうかねえ・・・

 

     そこでやめてしまうと、仕事を途中で放り出したような気分

     で落ち着かないし・・・論文に載せるグラフが、中途半端な

     温度で終わっているのも、何となく恥ずかしいようで・・・」

 

と苦笑していた。

 

  「でも、後でそのデータが役に立つかもしれないですよね」

 

と言うと、謙虚な人柄の彼は、

 

  「自分の意識としては、それも考えて、少し広い範囲のデータを採って

   おこう、と思ったのですが、彼等は必要になったら測定を追加すれば

   良い、という考えですね。まあ、当然ですが」

 

  「やっぱり、後で役に立つかもしれない・・というのは言い訳で、これ

   は意味の無い潔癖主義なんですかね・・・   

   考えてみると僕の場合も、そうして残したデータが役に立ったことは、

   今まで一度もなかったですし・・・」

 

と微笑みながら答えた。

 

 

習慣の原因は?

 

確かに、塵も積もれば山となる。このような「無駄」を徹底的に排除してしまえば、生まれる時間は相当なものになるに違いない。上に類似したケースだけでも、普通の実験家は1年間に10日以上になるであろう。

 

日本人が無駄を承知でもやってしまう理由は、当の日本人にもわからない・・・ 

  

彼はふと、「何となく恥ずかしい」と漏らしたが、もしかしたら、「恥の文化」とやらに関係するのかもしれない。

 

 

恥の意識とは、何かを摺り込まれているために生ずる感覚の一つと言える。どの時代だったか忘れたが、ある時代の中国人の女性にとって、踝から先の素足を男性に見られることは、大層恥ずかしいことだったそうである。

 

私たちの場合は、何を摺り込まれているのであろうか?

 

 

第2次世界大戦の戦場において、日本軍は銃弾が飛び交う戦闘中においても、兵卒が上官に話しかける際にはいちいち敬礼し、敬語を使っていた。

 

これは笑い話ではない。

「絶対にしなければならないこと」として、摺り込まれていた結果である。

 

 

(続く)