浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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無意味なことをする理由・させる理由(3)

  

 

シリーズの(2)から続く 

 

 「しなければならない仕事」だけで済ませ、他をすべて「してはならない仕事」とする英国流の社会人生活が板に付いた頃、私は帰国して、地方の国立大学に勤めることとなった。  

 

それまでやっていたことを、やらずに済ませる。 

これは比較的容易である。私は英国の社会に、すんなり順応した。

その逆は容易ではない。それまでしていなかったことを、しなければならない。

  

 

こういう人だったのね・・・

 

日本の大学では、授業の際に出欠を取るという習慣があった。英国でも大学院の授業を担当したが、少人数でもあり、これをしたことは無かったので、長らく忘れていた。

 

学則上、出席は成績評価に無関係である。出欠記録は成績資料ではないので、事務に提出する義務は無い。赴任の際に、着任グッズの一つとして、教員記録用のエンマ帳を事務から渡されたが、「ご自由にお使い下さい」とだけ言われた。事務電算化の以前の時代であった。  

 

その後、研究室の荷物整理が一向に進まず、休日にオトメに応援を頼んだ。そのとき、これを見つけた彼女は

 

    「  あなた・・・ホントは、こういう人だったのね ・・・

        自由な物理屋さんと思って、結婚してあげたのに・・・

        手伝ってあげるの、やめようかしら・・・   」

 

と、宮仕えに身を落とした私に、意地悪を言った。

 

 

最初のうちは、エンマ帳に出欠を記録したが、半年でやめた。オトメの言葉が堪えたからではない。確かに、私は他人を管理するのもされるのも好まなかったが、それが理由ではない。

 

出欠確認は、かなりの時間を使う。点呼を取るだけでも、1学期で積算すると、授業1回分以上の計算になる。紙を回して氏名を書かせると、教室の人数の20%増しであり、回が進むにつれて、この割合は増える。筆跡を確認することは現実的ではない。

 

これだけでも私にとっては、この作業を「してはならない仕事」とするに十分な理由であった。しかし、さらにそれ以上の理由があった。

 

 

宣言

 

出席は成績評価に無関係という建前であるが、一定の範囲で「出席点」を与える教官が少なくなかった。一方で、相応の理由なく1/3以上欠席すれば、未修として扱って良いという学則がある。相応の理由の判断は教官に任されていた。かなりの教官が、この飴と鞭によって、学生を教室に向わせていた。 

 

その結果、私の授業にも、出席者の中には入学以来、専門科目の単位を殆ど取得していない者が、かなり含まれていた。

 

物理学は、段階を追わなければ理解できない。必要な基礎事項を大きく欠いて出席すれば、一日の大半を何も解らない授業に費やし、勉強時間は奪われ、ますます卒業から遠ざかる。

 

するべきことは明らかである。最初の段階をきちんと勉強する以外にない。それにもかかわらず、基礎科目の単位を殆ど取得していない学生が、なぜ学年が進んだ専門の授業に出席するのか?

 

前段階の単位を取得していなくても、次の段階の履修が無制限に許されていた。この不適切なシステムが学生の判断を狂わせ、基礎的な科目の学習を放置して「貰える単位から貰っていく」という習慣を育てていた。そのような状態で出欠をとり、半強制的に出席を促すのであれば、「出席していれば単位が貰える」ことを暗黙の了解とせざるを得ない。 実際に、これが一部の学生の権利意識になっていた。

 

「無意味なこと」というタイトルでこのシリーズを書いてきたが、これは無意味というより、有害の域である。私は後期の授業の最初に「出席は評価に無関係である。出欠は取らない」と宣言した。

 

 

  

する理由・しない理由

  

勤務して2年目が終わる頃、ある年長の教官が教室会議の席で、私が出欠をとっていないことを糾弾し、出欠をとるように要求した。

 

この要求の意図は、要するに出席を成績に反映させろ、ということである。 この教官には以前、別の記事に登場してもらったが、それ以来、「出席しても単位がとれない学生がいるのは、教え方に問題があるからだ」と、機会あるごとに発言するようになっていた。 そしてすべての学生に、「まず出席せよ」と強く促していた。

 

理解する前提を欠く学生が多いことは、誰しも認めていたが、彼は「解らなくてもまず授業に出席させ、規則正しい生活を送るように仕向けることが重要である」と主張した。

  

これは、少なくとも私の場合、「する理由」には決してならない。 

 

理解が不可能な状態にあると知りながら、出席を強制することは、たとえ単位を与えても、精神的な虐待である。程度こそ異なるが、かつてソ連共産党強制収容所において、知識人に対して行っていた拷問を思わせる。無意味な作業を続けさせて意欲を失わせ、最後は廃人に追い込むのである。

 

本人が同意すれば良い、というものではない。ましてや次々と単位を与えれば、より困難な状況に追い込む。返済能力の無い者に、次々に新たな貸し付けを行うようなものである。履修が終わった授業は免除されても、次の授業はより困難になる。どうにも理解できない新しい事項が、日々、借金の山となって積まれていく。意欲を完全に挫かれ、学習を放棄する自己破産状態になる。 

 

本人としては、単位を取得することが、出席を「する理由」になるかもしれないが、これを長く続けられる者は、それほど多くない。無意味と自覚しつつ行う行為は、次第に大きな苦痛を伴うようになる。多くの教官が気付いていないが、理系では単位認定を一定以上緩めると、退学者が増えるのである。学生を良く観察していれば、すぐに分かることであるが。 

 

 

私が渡英する前であるが、当時、中高の学級崩壊が社会問題となっていた。これをテーマとした映画が大きな反響を呼び、あるシーンが何度も宣伝に使われた。

男子生徒が銃を持って教室に乱入し、数学教師の眼前に銃口を突きつけて、

 

    「何も解からん授業を、ずっと聴いとるのが、

     どんなに辛いか、オマエに分るかー!!」

 

と叫ぶ。ショッキングなシーンである。が、これは本人が辛さを自覚しているレベルであり、社会的な危険度は別として、人間の心理としては正常と言える。そうでなければ、多くの人々の共感を得ないであろう。

 

深刻なケースは、表から見えにくい。

担当1年目の学期末試験で、不合格者のために追試験を実施した。そのうち2人は、最初から答案を書く意思が無く、白紙の答案の上に鉛筆を置き、終了時間まで座っていた。計算の途中で時間切れになった受験者には、30分を限度として延長を許したが、その間も引き続き座っていた。そして答案回収後、私の部屋をノックし、「単位、出てますか?」と尋ねた。

 

延長時間も座り続けていた理由を尋ねると、時間の延長を、答案を書けていない者に対する「強制」と解釈していた。「私は無意味なことを強制したりしません」と言ったが、不服というより、怪訝な顔をしていた。

  

 若者をこのような状態にして社会に送り出すのであれば、大学は真に有害な存在でしかない。苦痛に耐えられず進路変更する学生に、むしろ救いを感じた。

 

 

 

させたい理由

 

ふたたび、教室会議の続きであるが・・・

 

「出欠を取らないのは、出席しなくて良いというメッセージを送ることですよ」、と言い出したのには、思わず苦笑した。指摘は正しい。ちなみに、この教官は出席点だけで合格ラインの60点を与えていた。こちらは「出席だけしていれば単位を与える」という明確なメッセージである。

 

彼はさらに、「能力のない学生に無理やり理解させようとすることはいけない」と言って、小難しい説明や計算を示すことは好ましくない、と私の授業を批判した。実際に彼の授業では 、説明や計算を示すことはほとんど無く、結果のみを与えていた。

 

物理学では、そのやり方は深刻な状況を引き起こす。一部の学生にとどまらず、すべての学生から出席の意味を奪う。真面目な学生は、理解できないのは自分のせいだと悩み、ノイローゼに陥る場合も出てくる。大学院への進学希望者をはじめ、私の部屋は多くの学生の駆け込み寺になっていた。

 

もはや争点は明確である。私があくまでも拒否すると、次のように続けた。 

 

  「出欠を取らないなら、貴方の授業に出席せず、試験だけ受けて

   合格する学生が出てくるかもしれませんよ。それで良いのですか?」

 

  「仮にそのような学生がいたとして、何がいけないのですか?」

  

  「それでは貴方は必要ないではありませんか?

   あなたは自分の存在意義を自分で否定していますよ!」

 

直接口にせずとも、本音は出るものである。「あなた」を主語にして語っているが、「私」を主語にしても変わらない。無意味であっても、出席を「させたい理由」は、ここにもあった。

   

しかし、学生が授業に出席していても、大学そのものの存在意義に悖れば、自身の存在意義も失われる。これを分かっているのであろうか? そして、私にまで同じことを「させたい理由」は何であろうか? 

 

大学の存在意義に悖ることは、分かっている。

が、理解させる授業を行うことは、負担が大きすぎる。

 

赤信号でも、みんなで渡れば、車の方が止まる。 

無意味でも、多くが参加して行事として成立すれば、意義を主張できる。

 

マイナスは人数で割れば、絶対値が下がる。

責任も 1/N に分割され、無限小となる。

 

 

が、このシナリオは、全員参加でなければ崩れる。 

 

理解不能の授業は、それに続く他の授業も理解不能にする。

後者を担当する教員が、出席するだけでは単位を保証しないなら、学生は騒ぎ出し、責任を追及されるかもしれない。

 

私の部屋が駆け込み寺になっていたことは、実際にこれが始まっていたことを示唆する。理解不能な授業だけではなく、無意味な出席を強制した責任も、いずれ問われるかもしれない。

 

 

しばしば報じられる、役所や企業における組織ぐるみの不正も、多くの点で類似する。「無意味」と「不正」は、構造的に近い関係にある。

 

私は出欠を取ることを、一概に無意味とはしない。が、一般に無意味な慣行を放置すると、知らぬ間に有害な行為を誘発し、あるいはそれに利用されて、強固に習慣化される。

 

本末転倒という日本語表現は、これを端的に表している。これに対応する英語表現を、私は知らない。辞書で紹介されている対応表現は、意味も適用場面も大きく異なる。最初から「末」を存在させない社会だからであろう。

 

 

なお、文部科学省の指導により、現在ではすべての大学が、出席を成績評価の対象とすることを、学則によって禁じている。

 

 

 

大学の存在意義と出席

 

それにしても、大学や教官の存在意義に、学生の出席は不可欠であろうか?

 

「ウラシマのムカつく顔など見たくも無い」というツッパリ君が、意地を張って自習し、試験だけ受けて見事に合格する・・・

 

それを許すのも、大学の存在意義ではないだろうか?

 

私自身は聴講に値する授業を心掛けていたが、自習して試験だけ受けることを否定する理由は思い当たらない。 

 

私の授業が聴講に値しないほど劣悪で腹が立ったなら、自習のみで合格した暁には「ざまあみろ、オマエなんか、要らね~ぞ」と、悪態をつくも良し。勉強してやり遂げた者の実感であれば、私自身の反省の材料としよう。誰も出席しないのであれば、本当に私は要らない人間である。

 

それにやや近い学生がいた。卒業前の最後の学期で、書籍丸写しのレポートを私に厳しく注意され、

 

   「物理など何も面白くもない。俺の人生に関係ない。

    単位は取るが、卒業したら永久に物理とおさらばする」

 

と言い切った。 

 

彼は、その後も授業には出席した。面白くないと言いながら、期末試験の答案は申し分なかった。単位が出た後に廊下ですれ違い、目が合ったので、思わずニヤリとすると、照れくさそうに笑いを返した

 

最後の答案は、核心の一部を掴んだ記述が随所にあり、彼の物理学に対する適性をはっきり示していた。 面白くなくなったのは、納得が行く前に流される授業に、嫌気がさしたのだ。ノイローゼに至らなかったのは、彼の精神の強さである。

 

彼は社会で十分に力を発揮するであろう。僅かではあっても、学んだことが役に立ったと思う日も来るかもしれない。教育が残すものは、個々の知識だけではない。

 

 

 

ちなみに、私が学んだ大学では、 多重履修(同じ時間帯の複数科目の履修)を認めていた。単位を落とした者の再履修を容易にする目的もあったが、出席より学習の実質を優先させる精神が基本にある。単位の認定は厳しかった。

 

私はこれを利用して、必修科目と重なった他学科の科目を履修したことが、数回あった。これをやっていた学生は多く、ノートを貸し借りしながら、交互に聴講する。互いに責任があるだけに、真剣に聴き、自習で補い、疑問を残さずノートを渡せるように努力した。苦労しただけのことはあり、ここで学んだ知識は、生涯にわたり役に立っている。

 

また多重履修の交流から、私は多くの素晴らしい友人を得た。ノートの貸し借りはディスカッションする機会にもなり、学問的にも人間的にも、彼等から多くを学んだ。私にとっては、大学の存在意義として、最大のものであった。

  

  

 

蛇足

 

投稿前にこの記事の原稿を覗き込んだオトメが、呟いた。

 

  「でも、あれって・・・我慢して続けられる人たち、偉いわよね・・・」

 

「それ」を偉いと言ってはいけない、と言いかけて、口をつぐんだ。

 

以前オトメに、「何事であれ、自分が出来ないことを出来る人は、私は尊敬する」と言ったことを思い出した。

  

仕切り直しをして、かからねばいけない。この問題は根が深い。

 

この社会には、数多くの「あれ」が存在する。

 

 

(続く)