浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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無意味なことをする理由・させる理由(4)

 

 

前回から続く

 

仕切り直しをして、 無意味な仕事の分類学の続きを試みよう。

 

無意味と決めつけることは言い過ぎとしても、しない方が良い、あるいは、しなくても良い、という仕事は、日本の社会では山ほどある。

 

 

 

 

見栄のための仕事

 

第2回の記事で、私の「綺麗に仕上げた図」や、実験家の「切りの良い温度までの測定」を、「習慣による無意味な仕事」と分類した。

 

考えて見ると、「習慣による」 というのは、広すぎて、色々なものを含んでしまう。第2回の記事では、習慣の背景として恥の文化を挙げたが、恥の文化に関係したものは、習慣で一括りにせず、独立したジャンルとした方が良いかもしれない。ここでは「見栄のための仕事」としておこう。

 

私の綺麗に仕上げた図も、恰好を気にしていた面があったかもしれない。何を「カッコ悪い」と考えるのか・・・実験家も私も、気付かないうちに、幼児の時から色々と摺り込まれているであろう。恥や恰好を気にするのは、他人と比較されることを意識するからである。 

 

私は実は、恥の文化を必ずしも悪いと思っていない。「見劣りする」という表現は、どこの国にもあり、人々は多かれ少なかれ見かけに拘る。

 

見かけを向上させれば、必然的に、中身も多少は向上する方向に向かう。立派に包装された御歳暮の箱を空けたとき、中にタワシが並んでいれば、ジョークにしかならない。多くの人は、立派な包装に見合った中身を考えるであろう。

 

ちなみに、御歳暮そのものに意味があるかは、また別の話である。「みんながやっているから、やめられない」というのも、見栄と無関係ではないが・・・

 

 

 

評価から美学へ

 

比較は評価に繋がるので、「評価のため」と「見栄のため」の区別は微妙である。

大学の人事選考のプレゼンテーションで、字配りが悪く、図も乱雑で見にくければ、「この人に授業を任せても大丈夫かな?」と誰でも不安になる。負の評価を避けるのが目的であれば、プレゼンの資料をできるだけ綺麗に仕上げるのは、少なくとも本人にとっては「無意味な仕事」ではない。

 

若手にとっては、学会発表なども、評価の場である。そのため、学生時代には、できるだけ視覚的に見やすいプレゼンをするように指導される。この時点では、指導は実質的に重要な意味がある。見やすくするにはどのように工夫すれば良いか、何を省き、何を強調すべきか、話の順序は・・・など、様々なことを学ぶ。

 

しかし指導が実質の範囲を超えたり、自分でもハマってしまって、本来の目的が忘れられて単に習性となり、「習慣による無意味な仕事」に繋がる。また、常に周囲と比較されることを意識づけられ、「見栄のため」となることもある。

 

そして、最後は「自己の美学」に昇華する。

  

  

何年か前、様々な国籍を有する世界の若者が、チームを組み、共同でビジネスを立ち上げる、という模擬プロジェクトが、何回か番組で紹介された。大変成功した試みとして紹介されていたが、その後の類似番組の情報や、関係者から実情を聞いたところによると、この種の企画では、どの国の人々も、日本人とチームを組むのを嫌がり始めるそうである。

 

例えば簡単な打ち合わせなど、準備段階のプレゼン資料などは、どの国の人々も手書きで15分程度で済ませるが、日本人は綺麗に仕上げるために何時間もかける。そのような性向がすべてにおよび、それを「質の高い仕事」と勘違いして人々にも強制し、目的と無関係な仕事を次々に作り出す、というのである。「何のためにやっているのかを全く忘れている」と中国人が不平を漏らしていた。

 

 

私は自己の美学に拘る性格の人間であるので、偉そうには言えないが、一般論で言えば、自己の美学に他人を巻き込むのは、迷惑な話と言える。 

 

(続く)