浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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無意味なことをする理由・させる理由(5)

 

 

 

前回から続く 

 

 

 

既得権益を保護するための仕事

 

 

かつては意味があったが、現代ではほぼ無意味になっている・・・それが分かっていても、制度上なお存在し続けている・・・という仕事は、かなりあるように思う。 

 

これは個人の価値観や習慣でやってしまうことではないので、これまで述べてきた例とは異なる。

 

無意味になった仕事が存在し続ける裏には、多くの場合、それによって収入を得ている人々が存在する。

 

 

署名に加えて捺印させる、というのは、一つの典型例かもしれない。ハンコを廃止すれば、仕事を失う人々は結構いる。

 

中高生の学生服は、一向に廃止にならない。生徒は毎年入学するので、これに関わる仕事の儲けは大きいであろう。学生服には意味がある、と主張する人が依然としているようであるが、私には全く理解できない。

 

日本の車検制度は、外国人の間で、いたって評判が悪い。殆どの車がポンコツの状態で走っていた1960年代までは、交通安全のために意味のある制度であったかもしれないが、安全に直結しない自己責任に属する点検項目まで多く含まれ、世界で最も故障の少ない車を生産する国となってからは、どこも悪くない車をいじくりまわし、手数料をとる制度となった。 

 

 第3回の記事で、「無意味な慣行は悪用される」と書いたが、車検の際に不要な部品交換を付け加えられた人は多いであろう。ハンコ制度に関しては、実印を偽造する犯罪なども誘発しているかもしれない。

 

 

 

既得権益を尊重する日本の社会では、このような仕事を排除することが難しい。実際には、無用な仕事を排除しないため、社会の新しい発展に対応したビジネスに労働力が流れず、利益の少ない仕事に固執する社会になっているように見えるが・・・ 

 

既得権益の受益者には、国や自治体も含まれる。

 

実印の登録は有料である。

パスポートの書き換えにもお金が取られる。

運転免許の更新にも・・・

国際免許証の発行にも・・・

・・・にも・・・

 

 

行政サービスには、すでに税金を払っているではないか。

これらの制度は、多くの国々では存在しないか、もしくは無料である。

これらは「隠れた税金」と呼ばれるそうである。ヨーロッパの殆どの国々に比べて、日本は税金が安いと言われるが、隠れた税金を合わせると、そうではない、と言う。

 

ちなみに、これに便乗して、民間も真似をする。

金融機関は送金をするのに高額の手数料をとる。外国の人は、これが最も腹が立つようだ。短期間でもその金は一時的に金融機関に保有され、投資に回されて利益を上げている。一定以上の金額であれば、粗品のサービスくらいあっても良いはずだが、逆に「手数料」をとる。「信じられないことをする国だ」と何人もから苦情を聞いた。

私は社会の経済的な仕組みは殆ど理解できていないが、彼らによると、政府が過保護な政策をとっているため、運用で利益を上げる銀行本来の能力が貧弱で、手数料に頼って生きる体質になっている、ということである。

 

 

 

抵抗勢力

 

組織が習慣的に不要な仕事を抱えている場合は、非常に厄介である。私が直接関わった話として、大学で体育の授業は必要か? という議論が持ち上がったことがあった。

 

実はこの議論は、昔から密かに何度も繰り返されてきた。新制大学における体育の授業は、終戦直後の発足時からであるが、これは帝国大学も、また(大学に昇格した)旧制高校も、多くの軍事教練の教官を抱えていたからである。

 

 

当然ながら、当事者の教官を交えて公に議論することは難しい。が、教養教育の改革の機運が盛り上がった20年ほど前に、この議論が本格化したことがあった。これは全国的な動きである。私が奉職していた大学では、このとき、理学部の教官と教育学部の体育系の教官の討論会が開かれた。

 

  廃止しろとは言っていない。実技を必修単位の指定から外したいだけである。

  必修単位の総数に上限があるので、他の重要科目を必修に出来なくなっている。

 

と理学部側は趣旨を説明したが、これに応ずるはずは無い。必修の指定を外した途端、履修者がゼロになることは目に見えている。それは事実上、廃止と変わらない。

 

  現在の授業形態はやめて、教官が履修者に合わせたトレーニングメニュー

  を作り、指導すれば、喜んで履修する者はかなり居るのではないか?

 

  それを喜ぶ教官はいない。我々は大学教授である。フィットネスクラブの

  従業員ではない。常に体操服を着用し、体育館に勤務する気はない。

 

理学系の教官は、仕事場とはそのようなものであると主張した。理系の教官は、日々作業服を着て、実験やフィールドワークに汗を流している。

 

だが、仮にその方向で進めた場合、将来はどうなるのかを、体育系の教官は正確に予想している。定年退職者が一人出るたびに、非常勤の職員に替えられる。授業科目はやがて廃止され、大学がスポーツ教室を経営し、収入を得るようになるのである。諸外国の例を見れば、それは明らかである。ちなみに、これは語学の教員にもあてはまる。

 

話は体育実技にとどまらず、保健体育の授業にも及んだ。

 

  保健体育は重要である。エイズのような、新しい問題もあり、授業で教える

  べきことは多い。

 

  エイズに有効な方法は避妊具を使うことだけだ。テレビの番組で誰で

  も知っている。それ以上は必要ない。 

 

  揚げ足を取るのはやめて欲しい。健康管理の知識全般について言っているのだ。 

  これは、生涯にわたって役に立つ、重要な教養ではないか。

  

煙草を吸いながらこの発言をしていた保健体育の教官に対して、生物学の女性教官が、控えめに発言した。

  

  煙草が健康に悪いことは誰でも知っている。それにもかかわらず、

  人々は、そのような健康を害する行為を、自ら行う権利を有する。

  健康管理は個人の問題であって、おせっかいは必要ない。

 

 

この言葉どおりではない。女性らしい見事な言葉使いであった(残念ながら思い出せない)。顔色を失った保健体育氏は、あわてて煙草をもみ消し、沈黙した。

 

閉会後、彼女は理学部の教官から喝采を浴びた。彼女は教授会の席でも時折に発言をしたが、その言葉の破壊力と切れ味は、オトメに匹敵するものがあった。

 

 

 

しかし結局のところ、変革は難しい。私はその後、全学の教養教育改革委員を務め、そのとき、この問題は最大の山場を迎えたが、長い議論にもかかわらず、体育の必修指定は維持され、大学はそのために人件費の支出を続けている。これについては別の機会に書くかもしれないが、あまり話を続けると、

 

  そもそも、日本にこれほど多くの大学や教員が必要か?

  なかんずく、社会で役に立たない理論物理は・・・

 

などとなりそうなので、ここではやめておこう。

 

 

ちなみに、現在ではキャンパス内の喫煙は、数か所の小さな喫煙所を除き、厳しく禁じられている。教官は、自分の居室においてすら喫煙を許されない。

 

 

 

 「今しなければならないこと」を見極める勇気

 

「した方が良い」ことは限りなく存在する。さらに、「しない方が良い」ことや、「してはならない」ことまでも、必要性を主張する理屈は、いくらでも捻り出せる。

 

この中から、本当の意味で「しなければならない」ことを見分けることは難しい。逆に、これらを「しない方が良い」と決めつけることも簡単である。例えば、「金がかかりすぎる」と言えば、反論は難しい。

 

このような場合、「費用対効果」という言葉が良く使われる。費用を見積もるのは簡単である。そして、重要なものほど、人々が驚愕するほどの金額となる。効果を予見し、価値を見極め、優先順位を付けることは、その時々に叡智と英断を必要とする。

 

 

 

例えば、人類はオリンピックの開催を続けてきた。経済効果が目当ての場合や、政治利用が目的の場合もあったが、やはり背後に、その価値を認める人々の良識があったと思う。

 

世代を重ねるごとに天井知らずに増加する加速器の巨額の建設費に、アメリカ政府は悲鳴を上げた。議会の公聴会に呼ばれ、将来的な費用の上限を尋ねられた物理学者は、赤道を一周する加速器の建設が最終目標である、そしてその前に、月を一周する計画を進めることが妥当である、と話した。議会は静まり返ったが、非難の声は上らなかった。

 

その後、アメリカ政府は、次世代加速器建設の支出の大半を日本に求める共同プロジェクトを持ち掛け、日本政府が前向きであったため、日本の物理学会は沸き立った。このとき、ある著名な先生が老人介護の惨状に警鐘を鳴らし、物理屋は余りに身勝手が過ぎるのではないか、と自制を求める記事を物理学会誌に掲載した。

 

この計画は、結局、種々の理由により実現しなかった。先生の記事がどの程度影響を与えたかは不明であるが、私の印象では、老人介護についての政府の姿勢は、それ以来、少しずつ変わってきたように思える。

 

今しなければならないことをするためには、必要なことすら据え置く勇気が必要である。社会は不要な仕事に出費する余裕は無いはずである。