浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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無意味なことをする理由・させる理由(6)

 

 前回から続く

 

 

「無意味なこと」というタイトルでシリーズを書いてきたが、この言葉を目に(または耳に)したとき、「学校の勉強」を思い浮かべる人が、かなり多いのではないだろうか? 

 

私は小学生時代、真面目に勉強した記憶が無い。むしろ、なるべくやらずに済ませようとしてきた。授業中は常に空想に耽り、自分にとって無意味な時間を、少しでも減らしたかった。どこかの大学で無理やり授業に出席させられている学生と良く似ている。

 

    学校が自分にさせていることに、意味があるのか? 

 

という疑問は、日に何度も頭を過った。加減乗除の計算などを繰り返しやらされたときは、大人になって、こんな仕事で毎日を送るなら、死んだ方がましだと思った。物理学を志さなければ、この思いはさらに捻くれてエスカレートしたに違いない。

  

    学問など、役に立たないのは明らかではないか。

    仕事を得るために卒業証書が必要だから、仕方なく進学する。

    そのために、仕方なく勉強する。 

    やる気が無い者はやめればよい、と言うが、やる気とは何だ? 

    自己欺瞞そのものではないか?

                 

 

    世の中には、無意味なことをさせる権力を持った人間が大勢いる。

    学校の教師、役所の人間、会社の上司・・・

    神様に貰った大切な時間が無意味に使われることを防ぐのは、

    基本的人権である。役に立たないことを人にやらせて利益を得る

    者がいるから、このような世の中がいつまでも続くのだ。

                 

 

 

面白さと難しさの比例関係

 

物理学の世界に入ってから、子供時代に私と同様だった人々が、研究者にかなり多いことを知った。学生にも、何人かの同類項を見出した(「回り道をした人々」など)。

 

余り知られていないが、理系を好む者の殆どは、単調な作業を嫌う。簡単にできるが長く単調な作業と、困難ではあるが決して単調ではない仕事があれば、前者を選ぶ者はいない。

 

理系に限らないが、面白さと難しさは正比例する。

単純なゲームはすぐに飽きるが、将棋は奥が深く、ファンが多い。多くの人が参加するのでレベルが上がり、人間の能力の限界を競う競技になる。面白いものは努力を要し、面白さと辛さは表裏一体である。

 

一般に、仕事を簡単な方向に変えて行こうとすると、仕事は次第に単調で魅力がないものに変化する。ある段階になると、やる意味も失われる。逆に、仕事を面白くしようと心がけていくと、仕事の価値は増し、そして難しくなる。

面白さ、価値、難しさの3者は、互に比例関係にある。

 

 

 

困難なものを何とか簡単な方向に持ち込もう、と発想することは、多くの場合、理系人にとって不幸の始まりである。代替できる作業は、たとえ見つかっても、最も嫌っていた種類の作業となる(真に独創的な新しいやり方なら話は別であるが)。

 

試験の丸暗記対策や書籍の丸写しレポートなど、自ら行ってしまう作業は自己責任であるが、誰かがそのように設え、強制している場合も多い。極端なケースは、幼児に微積分を教えるような教育法である。発案者は教育関係者ということであるが、理解させるという困難な作業を、思考を停止させた記号操作という、単純作業で置き換えれば良いと考えたのであろう。

 

これは民間療法であるが、学校の数学教育や語学教育、理科教育は、かなりの程度まで、それに近い。かくして、理系的人間は、理系科目を嫌うようになる。そして不幸なことに、彼等が興味を持てる内容は、もはや学校教育には余り残っていない。

 

 

(続く)