浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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無意味なことをする理由・させる理由(8)

前回からの続き 

  

 S君は私の研究室で大学院に進学し、博士号を取得するまで在籍した。

 

S君の困難

 

彼が学部の卒業論文で、数値計算を含む2つのテーマを3か月で終了させたことは前回話したとおりである。彼はそれまで、プログラミングはおろか、キーボードに触れたことすらなかった。私は彼の修士論文では、卒業研究の2番目のテーマを延長した。数学的な手法を中心に学ばせたが、博士論文では彼の適性を生かすため、大規模な数値計算を取り入れた。

 

そこで研究は大きな困難に突き当り、彼は苦渋の数年を送った。

数値計算には素人同然の私は、最初のうち困難の正体に気が付かず、S君がプログラムミスを犯していると考えていた。滑らかなグラフになるはずが、まったく飛び散った値を示し、異様な計算結果である。そのような場合には、苦しくても自分で間違いを探させ、修正させなければいけない。彼は悪戦苦闘し、後半の1年を無駄にした。すでに最終学年の半ばに差し掛かっていた。通常ならば、すでに投稿された論文が幾つかあり、博士論文の執筆にかかっている頃である。

 

精神的にかなり参っていたはずであるが、独立心の強い彼は、私に殆ど頼らない。私との接触は1回に15分程度でさっさと引き上げる。接触を避けているようにすら見えた。

 

1か月ほどS君と連絡が取れなくなった。学生の一人が、入院したので私に知らせて欲しい、とのメールを受け取ったと伝えて来た。そして研究室に現れた時は、顎に縫い合わせた大きな傷があった。夜中に車を運転していて、気が付いたら朝になっており、血だらけで野次馬に囲まれ、タンカで救急車に搬入されていたそうである。車は水辺で道路から飛び出し、半分沈んでいた。

 

私はこれ以上は放置できないと判断し、原因を究明するための補助計算を幾つか指示した。黒板を前に、私は行うべき計算を、かいつまんで説明した。これだけの説明では、普通はプログラムを書き始めることは難しい。しかし、彼はメモもとらずに聞き流しているように見える。そして「わかりました」と言って、15分で立ち去った。

 

こんな調子だからトラブるのだ・・・解らなくなって、またやってくるだろうから、その時に説教しよう・・・と思っていたが、彼は2時間後に結果を持ってきた。私が指示した計算はきちんと出来ている。私は次の指示を与えた。

 

これを何回か繰り返したが、指示は概略を説明するだけで十分であった。この1年間、彼なりに工夫し、色々なことを試みて力を付けていたようである。プログラム言語すら変えていた。

 

 

そして原因は突き止められた。プログラムのミスではなく、ギブス振動という、良く知られた現象が関係していた。これは当然の現象であるが、別の問題と絡んで予想外の形で表れていたため、大変複雑な数値的困難を引き起こしていた。これは学生が自分で発見するのは無理であろう。

 

私はこの時点で、S君の博士論文の提出が、少なくとも1年は遅れることを覚悟した。単純な三角関数の振動なら抑える方法は昔から色々あるが、今は特殊関数を用いており、かなり面倒な数学が必要である。腰を据えてかからなければならない。

 

勉強させる文献を用意するには、少し時間がかかる。私はとりあえず、特殊関数のある性質を利用した、簡単な対処方法をその場で思いつき、指示した。専門家なら笑い出すような子供だましである。そんな方法が通用するはずはないとは思っていたが、これを試みた結果は、今後の戦略を立てる上で役に立つ情報を多少は含んでいると考えた。また、今までのプログラムを修正するだけですぐ実行できるので、ダメ元で試してみても良い、と思ったのである。

 

すぐ実行できると言っても、2,3日はかかる・・・と思っていたら、彼は15分後に計算結果のグラフを持ってきた。この速さには驚いた。そしてさらに、その結果に驚いた。

 

 

決断 

 

ギブス振動は綺麗に取れ、滑らかなグラフである。そこで、厳密に解けるモデルに適用し、厳密解との比較をさせた。結果は驚異的な精度を示した。ここまでの精度であれば、当初の予定になかった物理量まで、様々な計算が可能である。私は多くの追加を指示した。

 

数週間のうちに、主要な計算は完了した。それまでS君が蓄えていたプログラムはすべて、少し手を加えるだけで使えたが、新たなターゲットも加わっての作業である。彼の計算力は、すでにプロフェッショナルであった。困難な時期を無駄には過ごしていなかった。

 

計算結果のグラフの山を目の前にして、論文の構想を話し合いながら、

 

    「今まで、良く投げ出さずに頑張りましたね・・・

     でも、もう少し私にまめに報告をしていれば、少なくとも

     一年前に、ここまで来ていたのではないですか?」

 

と言うと、「はい」と率直に頷いた。博士論文に相応しい研究成果が得られ、危機は去ったが、やはり残念ながら、1年遅れることになるであろう。博士論文を提出する資格として、英文の国際的な専門誌に投稿し、レフェリーの裁可を経て掲載された論文が必要である。すでに別のテーマで論文は出ていたが、規定の数に達するには、もう一編必要であった。日本物理学会のジャーナルで良いが、新しい方法には必ず疑いの目が向けられ、レフェリーの査読に時間がかかりそうである。ましてや子供だましである。不十分な状態で投稿すると、ますます裁可が難しい。

 

そのあたりの事情を話し、

 

    「今年の提出は難しいね。やってみても良いけれど・・・」

 

と言うと、

 

    「やってみます」

 

と即座に答えた。間に合わなくても、間に合わせるつもりでかかる方が良いであろう。私は前向きな姿勢を尊重した。

 

 

数値計算を積み重ねるにつれて、「ダメ元法」の驚異的な精度を支える数学的な背景が明らかになってきた。そのようなことは稀にある。インチキ臭いやり方が予想外に当たる。後からその理由が判ると、深さと一般性を備えた堂々たる正統派に変身し、適用範囲は大きく広がる。だから、何でもやってみなければいけない。

 

三角関数を使った場合には、余り御利益が無いことがわかった。昔から知られている素朴な方法のひとつに帰着する。しかし特殊関数を使うと、最適化が自動的かつ精密に実行できる。さらに計算が、2桁以上に高速である。

 

この定式化を完成させることは大きな意味がある。紙と鉛筆の計算が強い学生でないと難しいと思われたが、S君はすでに、その一部を試みていた。これは出来るところまで、一人でやらせよう。が、こちらはまだ、彼はプロフェッショナルではない。時間を要する仕事なので、とりあえず手持ちの材料で論文を書くように指示した。残りは博士論文が終わってからでも良い。ただし、投稿する論文は正統派のスタイルを前面に出し、「その場しのぎ」の印象を与えないこと、そして適用可能な範囲のすべてに言及し、一般論として別の論文を準備中である、と先鞭をつけておくように注意した。

 

 

 

日程との闘い

 

レフェリーの一人が難色を示している、と物理学会編集委員長から直々に電話があった。「博士論文に関係した論文であるので、速やかな査読をお願いしたい」と私は投稿の際にコメントを付けていたが、編集委員長の対応は、通常の手続きを省く異例のものであった。彼は「計算例が少なすぎる」とのレフェリーの見解を口頭で伝え、計算例の追加が可能なら、ファイル添付で改定版を自分に送ってくれればレフェリーに転送する、それで恐らく論文は受理されるであろう、と手を差し伸べてくれた。期限まで一週間を切っていたが、博士論文を提出する資格としては、掲載決定の通知があれば良い。論文受理のメールは前日に届き、間に合った。

 

博士論文は大学に提出される。これは申請時には間に合わせで良い。審査会が開かれる直前に差し替えることができる。しかし、実質的な本番は予備審査であり、これは長時間におよび、質疑応答も厳しい。予備審査までには審査員に渡す差し替え版が出来上がっている必要がある。何とかこれを間に合わせ、プレゼンの準備をした。通常は10回もリハーサルをするところであるが、1回半しかできなかった。審査員を選ぶのは指導教官の権限であるが、私はこのような場合には誰もが敬遠する、最も手厳しい若手の助教授をメンバーに加えた。S君は理論グループの最初の博士号申請者であり、この審査のレベルは、その後の基準の目安となる。私は、いい加減な審査で博士号を乱発するジャンクの大学院の方向には、向かわせたくなかった。

 

判定会議では、助教授氏が「素晴らしい」と繰り返し、誰も合格に異議を唱えなかった。

 

 

 

就職

 

博士号を手にしたものの、職の当てはない・・・

 

と思っていたが、突然、高名な先生から、S君はセミナーに招待された。

私と交流の全く無い先生ではなかったが、反応が余りにも早すぎる。私はこの先生が、投稿した論文のレフェリーの一人であったと直感した。今度は入念に下準備をさせ、リハーサルを行った。出発する日、万が一、職のオファーがあれば、どのような分野であっても決して断ってはいけない、と念を押した。言うまでもないことであろうが・・・

 

近隣の研究室からも多くの参加者があり、セミナーは学会のような雰囲気だったそうである。先生は終始厳しい態度で質問を浴びせ、プレゼンはボロボロになった。そしてセミナーが終了すると、「私の部屋に来なさい」と言われた。隣に座っていた中堅の年齢の先生が一緒に立ち上がり、同伴した。

 

研究室に入り、ソファーを示されて腰を掛けるや否や、

 

   「君は働く気はあるかね?」

 

と尋ねられた。「あります」と答えると、先生は

 

   「では、どちらかを選びなさい」

 

と言って、研究機関の名前を2つ挙げた。どちらも日本を代表する一流の研究所である。一方は名門大学に付設され、もう一方は独立の研究機関であった。S君は「どちらでも結構です」と答えると、先生は大学に付設している方を勧め、

 

   「こちらの先生が来月、教授として赴任されるので、協力して

    仕事をしなさい」

 

と言い渡した。

 

先生は研究内容より、蓄えられた彼の力量を見抜き、評価したのであろう。知らせを聞いて、私は大いに慌てた。先生に「ドクター終了まで田舎で過ごした学生であり、環境的に不十分であったが、伸びしろは十分にあるので、長い目で見てやって欲しい」と丁重なメールを送った。

 

 

S君はそこで数年間を研究員として過ごした。関連性はあるが異なる分野であったので、私は心配したが、彼には大きな強味があった。十分に理解していなくても、とりあえずターゲットが分れば、仕事を始められるのである。これは、十分に理解しないと足が前に出ない私とは全く異なる。得てしてこのタイプは、理解せずに数値計算だけを進めるため、とんでもないことをやって沈没するが、彼は不思議と、最後には理解が追いつき、帳尻が合う。そして彼が仕上げたダメ元法の拡張版は、異なる分野でも威力を発揮し、適切な指導者を上司として、共同研究は多くのヒットを生み出した。これらの一連の応用は、この方法をメジャーな手法の一つに育て上げた。この研究所は、世界最速を目指した科学計算用スーパーコンピュータのプロジェクトに関わっていたが、S君は立ち上げメンバーの一人となり、これを基幹プログラムの一つに加えた。

 

 

S君は、女神が微笑んだ人である。日の当たらない冬の寒い日々には、下に向かって根を伸ばしていた。事故に遭ったが天使が救い、命を落とさなかった。そして時間が無い状況でも、退かずに前に出たことが、次のステップに繋がった。この時の決断がS君の人生を決めた。時間に余裕が無かったことが、むしろ幸いしたかもしれない。余裕があれば、見込みの薄い方法は試さなかったであろう。

 

幸運に出会うことができるのは、困難を回避せず、問題解決のために意味のある行動をとる人である。当然ながら、問題を回避しようとすれば、問題を解決するチャンスには出会えない。

 

S君は現在、かつて提示された「もう一方」の研究所に移って研究分野を広げ、順調にキャリアを積んでいる。

 

 

 (完)