日本人の亭主
日本で
ある日、形勢逆転を狙い、レストランで食事をしながら
「・・・ところで結婚する前に、言っておくことがあるけれど・・・」
と切り出した。私を見つめるオトメに
「僕はフェミニストじゃないからね。亭主関白で行くよ。」
その刹那、
「あはははは」
と笑い飛ばされた。彼女の超高速の反射神経は、先手をことごとく塞ぐ。その後も何度か聞かされることになった
というセリフは、この時が最初であった。
ゲストハウスにて
英国に渡り、キャンパス内のゲストハウスに住んでいた時、ハウスの住人にブラジルの一家がいた。
日系移民の多いブラジルでは、英語に直訳して「Japanese husband」という表現があるそうだ。いわゆる「亭主関白」を意味する。
本物の Japanese husband が隣人となり、当初ブラジルの奥さんは、興味津々だったが・・・
「何だ・・・私達と全然変わらないじゃない」
とがっかりしたそうである。「どうして?」と尋ねると、
「だって、タローは毎日、キッチンでお皿洗ってるじゃない・・・
外からちゃんと見えてるわよ・・・」
自分でも、どうしてそうなってしまったのか、わからなかった。
Y教授宅にて
それから何年かして、Y教授宅のパーティに招かれた時のことである。私の他にも教室内の数人のメンバーが、夫婦同伴で招かれていた。楽しく談笑し、食後のコーヒータイムになった。この時、私とオトメはコーヒーではなく、紅茶を頂いた。
私は当時、紅茶には少量の砂糖を入れていた。一同は食卓からソファーに移り、そこに2人の紅茶のカップが運ばれた。オトメは私のカップに適量の砂糖を入れ、残りを自分のカップに入れた。彼女にとっても、それが適量である。そして、まず私のカップをスプーンで掻き回した。
ふと、奇妙な沈黙が流れていることに気が付いた。人々の視線がオトメの動作に注がれている。男性は皆、何となく鼻の下が伸びたような不思議な表情をしていた。女性の方は何となく、眉が・・・
突然、Y婦人の鋭い叫び声が、静寂を切り裂いた。
「 オトー!! What are you doing !? 」
私たちが驚いて夫人の顔を見上げると、
「タロー、あなたは、そんなことをオトメ
にさせるの!? いつもさせてるの!?
なぜ自分でやらないの!?」
と恐ろしい剣幕である。突然のことに目をパチクリさせていると、
「なぜ黙って見てるの!自分でやりなさい!
オトはあなたの召使いじゃないのよ!!」
私は苦笑しながら、両手を広げて肩をすぼめた。余裕をかましたその態度が、火に油を注いだ。Y婦人は再びオトメの方を向き、
「オト! 大体あなたが ・・・あ、まだやってる・・・
オト、やめなさい!!
タロー!! 早く自分で!!
・・・!! 」
Y夫人は、遂にはオトメの手を掴み、阻もうとした。が、すでに砂糖は完全に溶けている。私はカップをゆっくりと口に運んだ。
ティータイム
翌日の職場のティータイムに、パーティに同席した3人の男性が、ティーカップを持って私の隣に集まってきた。私に色々と聞きたがっている。
「日本人の女性は、誰でもあんなふうに、するのか?」
「誰でもと言う訳ではないと思うけど、まあ、外ではね・・・
一種のパフォーマンスだよ。期待される女性を演じる・・・
家の中では、また違うよ」
「中と外で違う? ふ~ん・・・
で、君の奥さんは、家で君のことを何て呼んでいるんだ?
やっぱりファースト・ネームで、タロー、と呼ぶのか?」
この質問は、それまで数えきれないほど多くの人からされてきた。
「いや、それはやらない。タローさん、と「さん」を付ける。」
日本人が尊称に「さん」を付けることは、殆どの人が知っている。
「ふ~ん、「タローさん」か・・・
君も奥さんを呼ぶとき、「さん」を付けるのか?」
「いや、僕から呼ぶときは、そのままファースト・ネームだ」
へえ、と彼等は顔を見合わせた。「タローさん」は実はあまりやらず、家では「あなた」と呼ばれることが多い、と付け加えた。すると納得顔で「アメリカ人の My darling と同じだな」と言うので、またややこしいコメントが必要となる。「あなた」はyouの尊称であること、日本語にはyouの尊称に多くの段階があること・・・
「あなた」とは、どういう意味なのか、「うちの主人が・・・」などと言うときの主人とは、どういう意味なのか・・・
元々の意味はほとんど意識されていない、と、くどいほど強調しても、やはり無理に対応させようとすると、「Your Majesty」や「My Lord」など、とんでもない言葉が出てくる。彼等の口からため息が漏れた。
「My Lord か・・・俺も、言われてみたいな・・・
・・・ パフォーマンスでもいいから ・・・」
蛇足:Japanese Wife
パフォーマンスの効果があるのは、日本国内だけではない。Y夫人がお気に召さない行動はあったが、オトメは日本の淑女として評判が高く、これは交流において私を大いに助けた。
英国以外の国では確認していないが、当時、最高の贅沢は
「米国で給料を貰い、英国の家に住み、中国人のコックを雇い、
日本人女性を妻とする」
と言われていたそうである。最近の日本食ブームで、中国人のコックは不要になったかもしれない。