浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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ヒトらしさと数理1

人間の脳には、初歩的な数学ソフトの一部がプレインストールされているようである。自然数の数理である。自然数とは1、2、3・・・と数えるときに用いる「数」であるが、これは数学的には、ある定義によって与えられる。この定義を見ると、数学に無縁の人々は「これ書いた人、頭おかしくない?」と思うかもしれない。数に対する私たちの日常的な感覚と、かけ離れているからである。

 

 

自然の数理構造

 

人間は、このような定義にはお構いなしに、太古の昔から数える能力、すなわち自然数の概念を、本能(= nature)として持っていた。「自然数=natural number」という名称の語源は、ここにあったのであろう。そして人間は、この能力を磨いて、様々な現象を定量的に観察することができるようになった。ひいては数の概念を拡張し、「数学」という学問として発展させ、自然法則の数理的構造を認識するに至った。

 

動物は、環境との相互作用の中で主体的に判断し、行動することによって、自らの生存を支える。生存を支える為には、周囲の状況を認識し、これに的確に対応する能力を必要とする。このような能力はすべての動物が一定の範囲で備えているが、当然ながら、進化の段階が高いほど、この能力は高い。

 

人間は分析力・判断力に優れ、また自然の力を利用することにより、生存を継続して来た。それを可能にしてきたのは、本能としての数の概念と論理性、さらに、それに基づく定量的な観察能力である。その経験を受け継ぎ、積み重ねることにより、人間は自然界の現象を高い精度で予測し、これに対応し、あるいは利用することができた。

この定量的な観察は世代を重ねるごとに精度を増し、人類は遂に、自然界が、整然とした数理構造を有する精密な基本法則に従っていることを突き止めた。

 

 自然界の基本法則が精密な数理構造を有するという事実は、数を認識する知性の出現が、自然環境への対応能力を競う生物進化の必然的な方向であることを示唆する。

もしかすると、生命進化の究極は、完全な数理構造を本能にプレインストールされた知性になるのかもしれない。このような知性が登場すれば、彼等はもはや学問としての数学など必要としないであろう。我々が日常生活において、学問としての自然数の定義を必要としないのと同様である。

 

 

数の進化と社会の進化

   

現生人類の進化の段階は、この観点からすると、まだ非常に原始的である。自然数は我々の基本OSの一部と言えるが、それ以上の高度な数や数学的概念はアプリケーションであり、せっせと自分でインストールして、常にヴァージョンアップしていかなければならない。人間は、努力なしには、数学を思考の道具として活用することはできない。

 

実際に人類は、何世代にもわたる努力の積み重ねによって、体系的な数学を発展させ、数を進化させてきた。複素数など、元々は我々の本能に組み込まれていないものである。これは一例で、その他に非常に多くの種類の数学的対象がある。

 

これらの数学的対象は、数そのものに限らず、形など空間認識に関するものをはじめ、多種多様であるが、元を辿ればすべて、人間がこの世界を定量的に認識する知性であることに起因する。実際、日常のあらゆる場面において、私達は物事を数量化して判断することを、無意識のうちに行っている。そのため、数は単純な自然数から始まり、社会とともに様々に進化した。

 

文明世界で暮らす人間であれば無意識に使っている実数が、かなり高度な数学的概念である。それ以前に有理数(いわゆる分数)、さらにそれ以前に、ゼロや負の数を含む整数が、すでに我々の本能から解離している。

  

つまるところ、人類は進化の過程で自然数の概念をプレインストールされたことにより、他の動物と全く異なる形で環境への対応を始め、社会を高度に発展させてきたと言える。私は、知性の発展段階として「人類」を定義するとき、数的な概念を有するか否かを、ひとつの判定基準として利用できるのではないかと考えている。

  

(続く)