浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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統計の虚実3

 

人は正確な統計データに基づいて、自分のとるべき行動を決める訳ではない。ビジネス等では利用できるデータが存在する場合もあるが、日常の行動では、そのような場合は少ない。

 

人々の判断の基準は、それぞれ経験の蓄積としての、個人の統計データである。多くの推測を含み、実態を正確に反映している保証は無いが、日常生活では、人はそれを頼りに行動する。

 

 

翼の人々

 

先日、テレビの番組で「ネット右翼」について議論されていた。SNSでの情報発信において、多くの人々がネット右翼に叩かれることを恐れ、それを回避するため、自らの意見を右傾化させている、というのである。

 

しかし調べてみると、右翼的な意見を大量に発信して炎上させているのは、ごく少数の人々である。これら少数の意見が全体を引きずるという、危険な状況が生まれている、と番組は指摘していた。

 

ネット右翼を専門に研究している評論家が取材を受け、自身の調査結果を紹介していた。それによると、ネット右翼が書き込みを行うのは、早朝から午前中など、普通に働いている人は不可能な時間帯が殆どである。しかも、夜間も発信者に対して即時対応するなど、普通の勤労者には困難な作業を、非常なエネルギーをもってこなしている。

 

このような人々はかなり年齢が高く、退職して働かずに暮らしている人々、あるいは若くても、会社経営者など、時間的に余裕のある人々であり、人数は少ないという。ただ、同じ人々があちこちに何回も書いているため、目に触れる回数が多い。

様々な方法で調査すると、右翼的な書き込みをしている人は、全体で多くても200万人程度に過ぎない、とのことであった。評論家氏は

 

   「1億の中の高々200万人程度の意見を、日本全体の傾向

    のように捉える必要はなく、それは滑稽で危険である」

 

という趣旨の結論を述べていた。

  

 

私は政治には殆ど関心が無いが、生来が権威に逆らう性格の末っ子であるので、右翼的意見には同調しない場合が殆どである。しかし番組を見て、前回の新聞記事の場合と同様に、「ちょっと待てよ・・・」と思った。

 

なぜ、ネット社会で沈黙する人々を、「意見を同じくする者ではない」と決めつけるのか?

書き込む時間が無いだけであれば、聞いてみなければ判らないではないか? 

ここでも、母集団の構成が考えられていない。

 

私が若い頃、大学は(教官も学生も)おおむね左翼的であった。とりわけ物理学会には、その空気が強かった。防衛大学校の先生方は、物理学会の会員になることさえ叶わなかった。

 

それに比べるとであるが、今の若手教官は、右翼的な考えに近づいている。

 

評論家氏は、ネット右翼の特徴として、「A新聞、中国、韓国の3つが嫌い」とコメントしていた。自身では「これをネット右翼の定義としている」ということであった。A新聞については分らないが、残りの2つに当てはまる人々は、若手の教官には非常に多い。

 

時間的・経済的な余裕のある人々は、全体からすれば母集団が非常に小さいと予想するが、この中に200万人ものネット右翼が存在するというのである。その比率は大きい。

 

加えて、余裕があり、かつ同様の思想・信条を持っている人でも、全員が書き込みをするとは限らない。沈黙している人々も多いと予想する。

 

決めつけてはいけないが、ひとまず、時間的・経済的余裕と右翼的思想が無関係であるとしよう。すると、例えば余裕ある人々が全人口の1割であれば(そんなに多いとは思えないが)、200万人という数は、10倍して考えなければならない。 

そして、余裕ある人々の中でも、右翼思想の持ち主の2人に1人しか書き込みをしていなければ、掛けるべき数は20になる。

 

何度も色々な場所に書き込み、意見を拡散させるほどの熱心な人でなければ、ネット右翼ではない、とするならば、テレビ番組の分析は正しいかもしれない。しかし、意見分布はまた別問題である。投票行動までは至らなくても、「右傾化は日本全体の傾向ではない」とは結論できない。SNSでの情報発信において、ネット右翼を刺激しない配慮をする人々の嗅覚は、個人の統計データとして、かなり正しい可能性がある。

 

 

 

捕鯨を非難する人々

  

国際社会でも、真の意見分布を知ることは難しい。

 

海外で捕鯨反対を声高に主張するのは、一部のヒステリック集団であり、良識ある人々の大半は、他国の食習慣に干渉する失礼を肯定しないのではないか、という楽観論が日本にはある。

 

確かに、シー・シェパードなどの行為は狂人的である。「時間的余裕があれば、自分もここまでやりたい」と思っている人々が、世界の多数派だとは思えない。

 

しかし、感情としての意見分布は、また別である。

 

   「君は鯨を食べるのか?」

 

という質問を、私は海外で何度も受けた。これには、ごく親しい人々も含まれる。質問者は、私の気分を害さないように、慎重に微笑みを浮かべて質問する。私は正直に

 

   「貧乏学生の時代に良く食べたが、好物ではない」

 

と答える。

 

 

質問するからには、肯定的な感情は持っていないと予想する。非難はしていないが、犬や猫を食する民族のように感じているかもしれない。「鯨を食べるのか?」と尋ねる人の中には、少なからず、「日本人は馬肉も食べると聞いたが、本当か?」と重ねて尋ねる人がいた。

 

すでに親しい間柄であれば、私が鯨を食おうが馬を食おうが、友情が損なわれることは無い。しかし、「私自身は鯨は食さない」と答えれば、新たな友人を得る可能性は高まるであろう。海外の意見分布は、その程度であると予想する。

 

 

 

年末パトロールを嫌う人々

  

自治会の「年末パトロール」というのが、首都圏にはある。「カチカチ、火のよーじん」という、江戸時代からの風習である。

どのくらいの地域で行われているのか知らないが、久しぶりに東京に戻り、これがまだ残っていることを知った。

 

 

慎重に微笑みを浮かべて、御近所の人々に、

 

   「あのパトロールは、本当に火災防止に効果があるでしょうか?」

 

と話を向けてみた・・・ことはない。結果は判っているからである。同じように微笑みを浮かべて、「やらないよりは、いいでしょうね」と応じるであろう。

 

 

ネット上では微笑む必要が無いので、文句を書き込む人々は口調が激しい。

いずれも「うるさい」「寝ている子供がおきてしまった」などと、騒音を反対理由にしている。

 

口調は激しいが、私はこれらの人々が、真の理由を書くことを控えている、と思っている。「こんなことやって、なんの効果があるの!」「無意味なことはやめろ!」「暇な年寄の趣味に、若者を巻き込まないで」・・・などとは、誰も書いていないようだ。 

 

ここに書いたのは、私の本音である。「うるさい」と苦情を述べる人々の本音も、実はこれではないか?  ・・・ と勝手に想像している。 

 

年末だけの行事であり、騒がしいのは短時間である。十分に効果を認めていれば、誰も文句を言わないのではないか。夜中の救急車のサイレンに苦情を訴える人を、私は見たことが無い。

殆ど意味が無いと思いつつ、町内会で参加を強要されるなど、不快な思いをした上での書き込みではないだろうか? 

 

 

私も町内で、正直な意見を述べて来なかった。それは、

 

    「何の効果も無いと、なぜ断定できるのか」

    「市民として出来るだけのことをすべきとは思わないのか」

 

などの「正論」によって反論されるのが、目に見えているからである。「私の分類では3、ないし4である」などというのは通用しない。

内心では意味が無いと思っていても、正論として認知されている意見に、敢えて異を唱える人は少ない。そして正論派は当然、沈黙を賛成と見做して勢いづく。結果として正論派は、ネット右翼と同様の働きをする。戦前の主戦論者と同様である。

 

激しい書き込みをしている人々も、それが分っているので、「うるさい」だけを理由にして、怒りをぶつけているのではないか・・・

 

 

 

真の意見分布は、近所付き合いの微笑みの下に隠される。

 

ネット上では、激しい口調でも、やはり意見分布は隠される。

 

 

 

 

余談:貧乏学生時代の食生活

 

私は貧乏学生のころ、鯨や馬肉を良く食べた。

 

安いコーン・ビーフの缶詰は、牛肉と表示してあっても、明らかに馬肉であった。これは脂肪が少なく、悪くなかった。

 

鯨は臭みがあり、苦手であったが、貧乏仲間の友人から教わった調理法で、冬場はそれなりの御馳走となった。

 

フライパンをストーブの上に置き、熱した頃に鯨肉のスライスを乗せ、数秒で裏返す。そして、さらに数秒後に、用意していた生姜醤油にさっと浸し、フライパンからそのまま食べる。

急がないと、食しているうちに臭みが増すが、熱いうちであれば、牛肉とそれほど変わらない。決してウェル・ダンにはしないので、鮮度は良いものを選ぶ。部位として高級な尾肉である必要はないが、できれば生食可能と表示されているものが望ましく、それなりの値段はした。

 

今は失業した貧乏老人である。日本が商業捕鯨を再開したら、また試してみようかと思っている。輸入牛肉より高くなっていなければだが・・・