浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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ヒトと集団1 ー 大学紛争の終焉

 

ノンポリ宣言

 

大学紛争の時代、政治的な議論に関心を持たない学生は、ノンポリと呼ばれていた。

  

私はノンポリである。

 

政治的イデオロギーより、個人の倫理観の方がずっと重要であると思っている。

 

したがって、政党政治を好きになれない。

それ以前に、徒党を組むのが性に合わない。観察するに、それは個人の意見を述べる勇気を欠く者の行動であり、あるいは個人の意見を通すための行動に見える。個人の問題を全体の問題にすり替え、人を巻き込んで自分の利益を・・・

 

・・・つい口が滑り、過激になった。当時、ノンセクト・ラディカルという言葉があったが、私はノンポリ・ラディカルかもしれない。

 

 

個人的な理由がある。私達の世代は、活動家学生のために多大な被害を受けた。大学入学の時、首都圏では2つの国立大学の入学試験が中止になり、多くの受験生が直前に志望校の変更を余儀なくされ、大混乱となった。入学した後も、最初の半年間はキャンパスが封鎖されたままで、授業が行われない。自宅待機を続けたまま留年する可能性が現実味を増してきた。そのストレスは相当なものである。翌年まで授業再開の見込みが無ければ、また別の大学を受験しなければならない。

 

夏休みに警官隊(機動隊)が導入され、実力行使で占拠学生を排除して、ようやく授業が開始された。そして、1年分のカリキュラムを半年間に詰め込まれた。この時期、私は受験生の時代より遥かに厳しい生活を送った。もう一度やれ、と言われても不可能と思えるほどである。

 

 

当然ながら、私達の学年の多くは、学生運動に対して冷ややかであった。

 

  

 

最後の活動家たち

  

授業が始まってからも、活動家の学生たちは、しばしば集団で教室に乱入し、授業を妨害した。あるいはメガホンで、教室の外からアジ演説を鳴り響かせた。過度に暴力的な集団ではなかったが、私はその後、徒党を組む人々を常に警戒の目で見るようになった。

 

しかし、当初はかなりの人数と思えたものの、授業妨害の回数や集団の人数は、次第に減って行った。私が入学した大学は企業との提携関係が深いため、他大学に比べると左翼的な傾向が弱かった。

 

 

3年生となり、年が明けて、寒さの厳しい学年末になった。私達は期末試験の準備とともに、研究室の配属先が気になり始めていた。この時期までには、上の学年に何人かの活動家の留年生が残っている程度であった。活動家集団と留年生集団は同一ではないが、一定の範囲でオーバーラップする。全学的に見て、政治的活動と成績不振に一定の相関があったことは事実である。

 

そして多くの活動家留年生にとって、6年目が終わろうとしていた。この大学の在学年数の限度である。 その時、私達の学科で、そのうちの2人が一般学生を期末試験のボイコットに巻き込もうと画策した。一部ではあるが、他の学科にも同様の動きがあり、連動した計画であった。

 

 

この2人は良く知られていた。2回ほど教室に姿を見せただけであったが、私たちと共に授業を再履修していた。一人は夜の仕事の女性と同棲して子持ちであり、もう一人はキャンパス内で小型バイク(原付)の危険なジグザグ走行を頻繁に行い、警備の職員を困らせていた。 

 

2人は、講義を終えて教授が退出した直後の教室にやって来た。2か所の出入口をそれぞれ立ち塞ぎ、残った人々の退出を妨げて着席させると、「会議」と称して、試験のボイコットを提案した。理由は、「国立大学の授業料値上げに反対する」ためということである。

 

当時、国立大の授業料は月額1000円であった。これを2800円に値上げする、という政府案を阻止しよう、というのである。政府案は、値上げ額を上回る奨学金の増額をセットにしていた。

 

私たちの学年は、(私以外の)殆どの学生が紳士である。何人かが「自分たちは学業を優先したい」という趣旨の穏やかな発言を、辛抱強く繰り返し、議論を終わらせようとした。

 

私は紳士的な対応が苦手なため、黙していた。が、活動家学生は一向に帰らない。穏やかな発言では手ぬるい。そこで、私は仲間の発言の一つを引き継ぎ、これにややピリ辛の味付けをして、お引き取り願おうと考えた。が、意図を察知したのか、私がその発言を引用するや否や、一人が素早く反応した。

 

  「 君は卑怯だ! なぜ人をダシにするのか?

   なぜ自分の言葉で自分の意見を語らないのか!

   人の言葉を引用して、人をダシにするのは卑怯者だ!」

 

・・・自分に跳ね返ってくる言葉を、良く並べたものである。腹が立った訳でもないが、こう言われては仕方がない。

 

  「 じゃあ、僕の言葉で言うけれど・・・

 

   はっきり言って、撲達を巻き込んで、ドサクサに紛れて

   卒業しようとしているのは、見え見えだよ・・・

 

   人をダシにするとは、こういうことを言うんじゃないのか?

   こういうのを、卑怯と言うんじゃないのか?

 

   卒業したけりゃ、勉強しろよ」

 

 

教室内のあちこちで、失笑が漏れた。 

 

  「 お前、ハンドーかよ!?

   オレたちは、日本の大学教育を守るためにやっているんだぞ!

   それが、わからないのか!」

 

ハンドーとは活動家独特の用語である。改革行動に敵対する保守派の反動勢力、という意味であろう。失笑はさらに広がった。

 

  「 他人の教育の前に、自分の教育を守れよ」

 

  「 授業に出ろ」

 

と、ヤジが飛んだ。

 

  「こんな滅茶苦茶な授業に出て、意味が有るか!

   学生の事なんか、何も考えてないじゃないか!」

          ・

          ・

          ・

 

学年末のキャンパス

 

本心が見え、少し気の毒になった。授業については、私達も大いに不満があった。良い授業も勿論あったが、滅茶苦茶な授業があったのは事実である。これも紛争の原因の一つだったかもしれない。

 

何の勉強にもならない、うんざりする長い計算ばかり、レポートで繰り返させる教授がいた。一部の若手教官は、私たちの学年に卒業が危うい学生がいなかったのを良いことに、とてつもない高度な専門書を教科書に使い始めた。自身の勉強を兼ねたと思われるが、自分でも満足に理解できず授業に臨む。試験には普通の問題を出題するのだが、この学年と一緒の再履修では、気力も失せたであろう。

 

一度、10人程度のグループで、学科主任に改善を求めたことがある。上の無意味な計算は、彼の授業であった。彼は全く誠意を示さず、身構えて私達を活動家学生のように扱ったので、私達は黙って引き下がった。その時のメンバーは大半が大学院に進学したが、他学科や他大学に移った者が殆どである。

  

  「僕達だって、授業には苦労してるよ。何とかやってるけど・・・

   でも、それは個人の問題だから・・・全体の問題にすり替えるなよ」

 

再履修者の全員が困難な状況に置かれていた訳ではない。私達の学年では、互いに教え合い、相談し合う習慣が出来上がっていた。そこに再履修者も加わり、一緒に勉強するグループも発生していた。

 

多くの活動家学生の特徴であるが、彼等は一般学生に対して、尊大で侮蔑的な態度をとる。そのため自ら孤立し、輪の中に加わることができなかった。そして成績優秀な活動家仲間が次々に卒業すると、頼る人々がいなくなった。

 

気の毒ではあったが、試験のボイコットは完全に諦めさせなければいけない。手勢を率いて試験場に乱入する可能性もある。留年の道連れは御免である。

 

    「卒業しようが、しまいが、どっちみち君達は、この3月には大学から

   いなくなるじゃないか。 授業料の値上げは君達には関係ない話だろ?

   自分の目的に利用するのはやめろよ。

 

   とにかく、僕達は卒業したいので、試験を受ける。

   これから家で勉強するので、帰してくれよ」

 

 

人々はヤジや失笑を控え、教室は静かであった。

2人は捨て台詞を残して去った。

 

私の発言は、かなり危険なレベルであった。当時は殺人事件さえ起こっていた大学もある。暫くの間、何人かの友人が、帰宅の際に駅まで同伴することを申し出てくれた。 

 

 

期末試験の終了と同時に年度が終わり、2人は除籍となった。すでに期末試験の教室に、彼等の姿はなかった。 

 

人通りの少なくなったキャンパスで、一度だけ、原付のジグザグ走行が目撃された。

 

 

 

集団の黄昏

 

一時はかなりの人数が参加した大学紛争であるが、一口に活動家学生と言っても、幅は広い。投石に加わった学生たちも多くは、普段は普通の生活を送る人々である。そして殆どの活動家学生は、ほぼこの時期までに大学を去った。社会人となり、あるいは大学院に進学するなど、それぞれの人生を歩む。

 

除籍された人数は、多くはないであろう。この大学は在籍限度の期間が短いため、多くの学生は卒業が危ういと、早めに他大学に移る。そのため、活動家学生の集団は、他の大学より急速に縮小した。

 

成熟へ向かう社会の変革は、流血によっては達成されない。暴力的な行為は石を投げる程度が限度である。革命家の活動も市民生活を営みながらであり、日々の糧や将来への準備は、個人の問題である。

 

たとえ社会が変わっても、これら個人の問題は残る。多くの人々は、集団の活動とは別に、自身の問題に対しては独自に対処していた。あらかじめ医者に診断書を書かせて休学を申請し、期間を延長して卒業した学生もいた。全国的な全学共闘会議を率いたのは、秀才の誉れ高い理論物理学の大学院生であったが、彼も紛争後は、独自の人生を歩んだ。

 

 

自分の人生を顧みず活動に身をやつし、気が付いた時には取り残されていた人々がいた。その結果、社会の中で細々と維持され、先鋭化していった少数の集団が残された。「よど号ハイジャック事件」や「浅間山荘事件」などは、消滅し損なった断末魔の集団が引き起こした事件である。

 

理解しがたい行動と見られたこれらの事件については、当事者の談話も含めて、様々な角度から解説がなされてきた。が、私は単純な理由によるものと思っている。

 

集団は、メンバーの利益を互いに守る限りにおいて、維持される力を残す。利益には精神的なものも含まれるので、当人たちがどのように意識していたかは分らない。が、いずれにしろ、縮小して孤立化した集団は、すでに社会的な目的を失い、最後には個人的な利害の一致によって保たれていたのではないか。試験ボイコットの2名と同様である。

 

そして彼等は、個人の問題に対処する方法を持てず、最後まで集団の力を頼みに、自らの生きる道を模索した。

 

 

(続く)