浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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ヒトと集団2 ー 集団の発生理由

 

 

人と集団1」から続く 

 

 

大学紛争の時代に、活動家学生の集団が、世界的な規模で発生した理由は何であろうか? そもそも、集団が発生するメカニズムは、どのようなものであろうか?

 

幼稚園でもサルの社会でも、集団は自然発生するので、これは文化人類学のテーマかもしれない。

 

私はノンポリであり、理系人間であるので、社会現象としてこれを理解することができない。身の周りの出来事として観察し、社会からはみ出した者の視点で、自己流に分析し、勝手に納得するのみである。

 

 

集団の目的と変貌  

 

一般に集団は、目的を持って結成される。集団の目的とメンバーの利益は、完全に別の場合も、完全に同一の場合もある。しかし多くの場合に、この2つは一つの集団内に共存しているように見える。とくに私には、両者を区別することが難しい。

 

集団のサイズは、集団を維持する力である。とくに発展期の集団では、人々を勧誘する際に、集団の目的と個人の利益の重なり部分を強調する。実際に集団は、しばしば、必ずしも集団の目的と関連しないメンバーの利益を守るようだ。

 

そして集団は、次第に利害を共通するメンバーが多くなり、利益共同体の性格が強まる。サイズの拡大とともにメンバーの利益を守る力は強力になり、その守る力が、集団を維持する力となる。

 

 

大学に入学した当初、私は正直なところ、活動家学生に対して、一定の範囲で、支持する感情を持っていた。たとえ意見は異なっていても、人間として尊敬できる人々を、入学前に何人か知っていた。が、入学して、集団としての実態を目の当たりにして、大いに失望した。全員ではないが、多くのメンバーが主義主張を自分の都合に合わせて利用する。私の政治的イデオロギーに対する拒否反応は、この体験から来ている。そしてこのような集団は、メンバーを守る力も弱く、簡単に消滅した。

  

前回の記事に登場した2人は、「授業料の値上げは、一度許すと繰り返され、いずれ貧乏人は高等教育を受けられなくなる」と主張した。

 

今になってみれば、それは実に正しかった。 今では国立大学の授業料は、当時の50倍にも達し、貧乏学生はアルバイトばかりで勉強どころではない。

 

彼等が日頃から勉学に励んでおり、その上で理念を真剣に語り、署名活動などを展開すれば、多くの人々が応じたであろう。活動に参加する新たなメンバーを獲得したかもしれない。だが彼等の行動の動機は、すでに掲げられた理念から離れ、それが人々の目にも明らかだった。

  

 

卒業後も職場や地域社会で、様々な集団に遭遇し、勧誘される機会があった。互助会のように、最初から相互利益を目的としている場合は良い。しかし何らかの理念を掲げる団体には、参加する気になれなかった。

  

  

集団の統制 

第一回目の記事に、社会で孤立した集団が引き起こした事件について書いた。このような事件はその後も、地下鉄サリン事件のように比較的大きな集団から、また数人程度の小さな集団まで、しばしば起こっている。これは日本国内に限らない。 

 

比較的大きいといっても、このような集団はほぼ例外なく、肩を寄せ合って互いに居場所を提供する、孤立した人々の集まりである。このような小集団が発生する背後には、「属さないこと」に対する人々の不安感があると推測する。

 

集団が崩れ去り、居場所を失うという恐怖は、集団を守る力となる。このような集団では同調圧力の域を越えた統制が行われがちである。マインドコントロールもその一種であろう。

 

学校での「いじめの構図」などを見ると、この不安感は、人によっては非常に強いようだ。社会から「いじめ」を根絶するには、個人個人が「属さなければならない」という呪縛から、解き放される必要があるのだろう。一人の時間を有意義に、楽しく過ごすことを、学校でも、様々な方法で体験させる必要があるのではないか。その上ではじめて、他者との距離を適切に保つことを学ぶことができる。

 

たとえ集団を形成しても、それは全体の中では孤立した、小さい集団かもしれない。そしてその中で多数の意見であっても、外部の世界では、受け入れられない考えかもしれない。とくに、そこで不適切な同調圧力があれば、外部の世界では批判の対象となる。そのことを、子供のうちに教える必要がある。

 

 

集団と市民生活 

一般には、利害を同じくする人々の集団を否定する理由はない。企業は経済活動を行う集団であるから、これは当然、利害を同じくする人々の集まりである。そして社会には多数の企業があり、そのいずれかに、殆どの人々が属している。

 

企業内の活動においては、職制上の上下関係が存在し、活動目的に沿った管理・運営が行われる。言い替えれば統制である。そして企業間には、慣習的な商道徳が存在し、法も整備されている。要するに、企業の一員としての活動は、市民生活そのものである。

 

国家も巨大企業に類似する存在と言える。十分とは言い難いが、ここにも国際法があり、調停機関としての国連が存在する。

 

 

しかし、その他の自然発生的な任意集団の多くについては、法的な規制がない。利潤の追求を掲げていないからであろう。そして、集団内の組織づくりにおいても、明確なルールや指針がある訳ではない。

 

しかし、ひとたび集団が形成されれば、必ずしも経済的な利害ではなくとも、何らかの利害関係が発生するのが常である。そのため、何らかの統制が始まる。

 

ルールは無くとも、集団は個々のメンバーに対して、集団の利益を守る行動を要求する。これは、ある程度まで避けられない。その結果、志で結ばれていた集団は、いつしか利害で結ばれる集団に変貌する可能性を秘める。ここでしばしば、同調圧力が重要な役割を果たす。そこでは、実態は利害でありながら、それを格調高い理念でカモフラージュする「正論」が支配する。

 

政党や宗教団体のような、志を同じくする者の集まりは、本来は利害を同じくする者の集まりではない。だが、志と利害を明確に区別できる場合は必ずしも多くない。さらに、区別できる場合でも、そこで公正さを保てる人は少ない。 

 

そして統制を維持するために上下関係が形成され・・・さらに集団の利益を脅かす外部に対して攻撃的に・・・

  

前回に続いて、また過激なコメントになりそうなので、控えよう。

 

 

 

集団の幸福度 

企業の一員としての活動は市民生活そのものであると書いたが、言うまでもなく、市民生活は無制限に自由ではない。市民生活を営む限り、集団から完全に離れることは不可能である。しかし私は自分の利害より時々の心情を優先してしまう人間なので、統制の論理には馴染めず、なるべく集団に属さず、個人の自由を確保するように努めてきた。それがある程度可能な職業であったことは幸運であったが・・・ 

 

集団の中で息苦しく感じるのは、私だけではないように思う。一般に、日本の社会は、あらゆる集団において統制が強すぎる。そのため、市民生活の幸福度が高いように見えない。そして統制に伴って、多くの「無意味な仕事」が発生している。この点は、これまで色々な記事に書いて来た。若い世代の人々の間に、これを変えようとする意識が高まっていることは心強い。

 

 

 

ただ、私は人間嫌いではない。

私は同好会のような、利害や管理とは無縁な集いを好む。  

現在開いている物理学サロンは、とても楽しい。

 

近頃では、スポーツのサークルやクラブ、アマチュアオーケストラなど、このような同好のサークルが盛んである。これは人生を豊かにし、大変素晴らしいと思う。このような活動は、もっと広まって欲しい。

 

 

残念ながら、このようなサークルでも、しばしば空中分解が起こる。原因は色々あるのだろうが、その一つとして、利害で結ばれる集団しか知らない人々が、これをマネージするやり方を持ち込み、それが人間関係を悪くさせているケースがあるようだ。 空中分解には至らずとも、少なくともこれは、優良なメンバーを失い、集団の目的を損なう原因となる。

 

統制されるのは、職場だけで十分であろう。私達の社会では、利害や管理と無縁な集いを奨励し、これを育てる経験を積み重ねる必要があるのではないだろうか。ノンポリの私が言うのはおこがましいが、その土台が無ければ、民主政治も成熟しないように思える。

 

 (続く)