浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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ヒトと集団3 ー オトメの場合(後編1)

前編2から続く 

 

前回は私達が住宅を手に入れた経緯の説明が長くなり、やや脱線してしまったが・・・

 

話を元に戻そう。

 

 

転機

 

大学教官夫人の会において、オトメの影響は、最初の段階から少しずつ始まっていたと思われるが、後から考えると、私達の住宅の購入が、大きな転換点だったように思える。

  

住宅の見学会が行われたことは前回の記事に書いたが、この後、会のメンバーの何人かは、見学会をコンダクトした環境派の建築家とともに、新居の検討を始めていた。

 

しかし、私達の購入した家を見た時、会のメンバーの動揺は激しかった。

 

元々が「見かけ重視」のモデルハウスである。さらに、大々的に宣伝したイベントだったので、会社は宣伝の続きとして、内装をヴァージョンアップした。これに対して、べニア板が剥き出しの壁では、昭和初期のレベルと言える。そしてシステムキッチンを始めとするメーカー仕様の各種設備は、建築家の主張する「見かけより実質」の説得力を、完全に失わせた。

 

実際に彼に設計を依頼し、施工まで進んだのは、医者の家族の1軒だけであった。これは大変大きな家になった。建築家の主張通り、リビングの中央付近に階段が作られたが、それでも邪魔にならない大きさである。他の人々は退職後の転居や(当時は高かった)金利負担も考え、蓄えの範囲でローンを組まずに購入できる中古住宅に興味を移した。

 

大口の仕事を取り損ねた建築家にとっては、大きな痛手であった。

 

 

 

ライフスタイルの多様化

 

私達の家が完成し、オトメがそこでピアノを教え始めるようになると、会のメンバーの何人かは、子供たちにレッスンを受けさせるようになった。そして何人かの母親は、自身も生徒としてレッスンを受け始めた。

 

それを見て、

 

  「そんなに一生懸命、お稽古ごとして、これからどこへ御嫁に行くつもり?」

 

とからかうメンバーもいたが・・・

 

やがてオトメは、第1回目の発表会を開催した。息子のカメも出演するので私も見学したが、この時、会と無関係に入門した生徒(とくに女の子)は、いずれも華やかな「ステージ衣装」で登場した。オトメの指導ではなく、保護者たちの自発的な行動である。私にとっては見慣れた光景であったが、会の人々の目には、無駄な出費と映ったかもしれない。

 

しかし2回目からは、大人の生徒たちも、何人かが発表会に参加するようになった。すると写真撮影もあり、ビデオ録画もある。さすがに彼女たちも、ジーンズでステージに上がることは控えた。子供たちにも、それなりの「よそ行き」姿をさせた。

 

 

発表会だけではない。しばらくするとオトメは、生徒たちをジュニアコンクールに定期的に出場させるようになった。予選は地元で行われるが、出場者の何人かは本選まで進む。生徒の父兄やその友人も会場に足を運び、雰囲気に馴染んだ。

 

 

要するにオトメを中継点として、会の人々と外部の人々との交流が始まった。このような影響から、会の人々の意識が少しずつ変わりはじめ、ライフスタイルにも変化が生じた。とくに団体行動より、美術館での鑑賞など、個人で楽しむ行動が増えて行った。ピアノを習い始めた人々は、それまでと異なる人生の楽しみ方を体験した。何人かは今でも楽器を続けている。

 

直接的な交流だけでなく、子供たちを通じた間接的な影響もあったかもしれない。オトメは、レッスンの時は普段着ではなく服装を整え、学ぶ場としての意識を持たせる。父兄も、同伴する時は服装を整えていた。

 

私の記憶では、この頃には、会の人々は普通に口紅を使用するようになっていたように思う。オトメはさらに、装身具を身に付けることもある。以前は口紅を拭き取られるほどであったから、安物の装身具などは「虚飾」の最たるものと言えるが、彼女たちは次第に、それにも抵抗感を失くし、ブローチなども身に付けるようになった。

 

洋服や装身具を購入する際に、オトメにアドバイスを求める人もいた。ここで彼女は、スタイリストの能力を遺憾なく発揮した。実家の家業で培われた眼は確かである。高価なものでなくとも、本人の良さを引き出すものを選ぶ。年配の御婦人の何人かは、気品さえ醸し出すようになり、見事に変身した。

 

 

(続く)