浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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マニュアル人間の精神構造2ー推薦入試の人

(1)に続く 

 

大学の入学試験は、年に何度も行われる。私の奉職していた大学では、学部入試だけでも前期日程・後期日程・2回の推薦入試の、計4回であった。これに加えて大学院入試が年に3回ある。

 

 

推薦入試のはじまり

 

学部の推薦入試が導入された当初、文部科学省は、選考において「多面的な評価」を取り入れるように指導した。面接や口頭試問、小論文などで、 学習意欲やコミュニケーション能力など、高校科目で学ぶ知識以外の適性を評価の対象とせよ、というのである。

 

当初は教官の中にも、これに積極的な人々が必ずしも少なくなかった。私自身も(賛成した訳ではないが)、一定の範囲で、そのような選考の意義を否定しなかった(これが如何に困難な作業であるかは、10年以上の歳月を経て、ようやく教官の眼に明らかとなってきた)。

 

高等学校の側は、推薦入試に対して積極的でなかった。地方都市においては、進学校はすべて、国立大学への進学を重視する。そしてメジャーな大学の入試では、従来通りの学力試験が主流である。生徒の目が推薦入試に向かうことは、教育現場に緩みが生じ、先生方にとっては好ましくないのである。

 

その結果、とくにセンターテストを評価に含めないタイプの推薦入試には、殆どすべての高校が、学力的に一般入試で合格する可能性の低い生徒を推薦して来た。

 

学力以外の「多面的な評価」を謳っているのであるから、当然と言えるが・・・

 

 

 

面接の方法

 

推薦入試には幾つかのタイプがあるが、選考は一般に、高校側が作成した調査書と口頭試問、および一般面接によって行われる。

 

本人が作成した「志望理由書」などの書類の提出も求められるが、これらには高校側の進路指導の先生の手が入るので、どの程度本人が書いているか疑問である。殆どがホームページや大学案内からキーワードを拾い上げ、本人の希望と繋ぎ合わせた不自然な文章が並ぶ。

 

 一般面接の時間は、一人15分程度である。公平性を確保するため、すべての応募者に同じ質問を用意する。多面的な評価において、この種の公平性は妨げと思えるが・・・

 

最初に必ず志望理由が聞かれる。すでに書類を提出しており、重ねて聞くことは無意味であるが、用意して来た答えを述べる機会を与えることで、安心させ、リラックスさせる効果があると主張する教員が多い。

 

要するに儀式である。殆どの受験者が、提出した志望理由書と同じ内容を、 「私は・・・貴学の〇〇の精神に・・・」と、棒読みの状態で口にする。

 

 

 

面接の人

 

志望理由以外の質問事項は、毎年少しずつ変える。しかし高校側もあらかじめ予想し、想定問答のリハーサルを行ってくる。

 

3年目くらいになると、高校側の対応マニュアルはすっかり出来上がっていた。したがって面接では、受験者は冒頭の志望理由の陳述に続き、その後も殆ど、頭の中に用意してきたテープレコーダーの棒読み再生となる傾向が強い。

 

しかし準備できるパターンは、頑張っても3つほどである。そして、どんなに入念に準備しても、実際の質問が想定していた内容と完全に一致することはない。それでも多くの志望者は、自分が準備してきたシナリオのどれが最も近いかを懸命に考え、テープを再生した。

 

4年目であったろうか。私達は質問内容を大きく変更した。受験生の1人が、志望理由に続く最初の質問に対して、全く無関係な内容を語り始めた。進行役を務めていた私は彼を制止し、質問に対してのみ答えるように注意を促した。

 

すると彼は2番目のテープの再生を始めた。これも質問事項とは全く関係がない。私は再び制止して

 

  「ちょっと待ってください・・・貴方が色々と準備して来られたこと

   は解かりますが・・・今はそれを忘れて、まず質問を良く聞いて、

   聞かれたことについてだけ、考えて答えて下さい」

 

と注意を与えた。念のため、ゆっくりと質問を繰り返した。

 

彼は顔を歪め、3番目のテープの再生に移った。完全に棒読みであり、話はますます無関係になる。私はついに、やや厳しい口調で

 

  「待ちなさい・・・貴方は、自分が話している内容が、質問と無関係

   なことがわかりませんか?  私達は採点表に評価を記入します。

   貴方が自分の頭で考えて答えれば、どのような答えでも、それなり

   の点が記入されます。しかし、無関係な内容ばかりを続ければ、何

   も答えていないのと同じ結果になってしまいますよ・・・」

 

そして彼は、苦渋の表情を浮かべ・・・

 

・・・最初のテープに戻った。

   

 

試験終了後、私は予定にないことを発言したという事で、審査委員長からきつくお叱りを受けた。

審査する側も、あらかじめマニュアルを渡され、管理されていたのである。

 

 

 

 

真の理由は?

 

前回の記事で紹介したスマホショップの店員の場合は、マニュアルからの逸脱を許されていないのか、能力や知識を欠いているのか、不明であったが・・・

上の受験生の場合は、後者ではあり得ない。問題を解かせている訳でもなく、知識を訪ねている訳でもない。進路指導の先生に、厳しく注意されていたことが予想される。

 

しかし、第3の可能性として、誰かに命じられていたのではなく、自分で自分を縛り、予定の行動から逸脱しないように、強固な意志を持って臨んだことも考えられる。

 

その場合、その方が危険が少ないと信じさせる成功体験の蓄積があったのだろう。その蓄積は、すでに高校側にあったかもしれない。あるいは、両親の社会的体験から受け継がれたかもしれない。

 

両親だけとは限らない。この社会には、そのような成功体験が溢れている。どのような結果を招いても、マニュアルに従っている限りは、責任を問われない社会なのだ。この精神構造は根強い。海外ではこれが逆転する。適切な現場の判断が出来なければ、担当能力を欠く者と見做され、解雇の対象にすらなる。

 

 

合否判定会議において、私はこの受験者を不合格とすることを強く主張した。

・・・が、この受験者は合格した。

 

この結果は、成功体験の追加として高校側に持ち帰られ、進路指導のマニュアルの権威を、より強固にしたであろう。

 

 

余談:受験者たちのその後

 

すべての受験者が、上の例と同じような対応をした訳ではない。多くの者は、用意してきたパターンの組み合わせによって、対応を試みた。しかし質問との関連性は薄い。いずれにしろ私は、質問内容と無関係な答えを採点する方法を持たない。が、点差を付けた採点者も多かったようである。

 

少数の受験者は、用意したテープをあっさりと捨て、自発的な対応に切り替えた。そのような受験者の場合、コミュニケーションは自然で、申し分なかった。採点者は(私も含めて)大いに喜び、こぞって高得点を与えた。

 

しかしそのような受験者は、入学後に長期留年や退学など、極度の成績不振者となる場合が多いことが次第に明らかとなり、私達を失望させた。とくに、一般面接の採点項目である「意欲」や「積極性」などの得点は、入学後の勉学態度と顕著な負の相関を示し、面接によって「多面的な評価」を行うことの虚しさを実感させた。

 

海外の場合、私の観察では、コミュニケーション能力と学力とは、非常に強い正の相関がある。したがって、学力の高い者は、社会においても能力を発揮する。

 

日本の場合、「口八丁手八丁」というのは、どうもいけないようである。

が、就職試験では、彼等が再び高い評価を受けることも多く、学力と社会人としての能力に負の相関がある、と主張する人々もいる。就職後の評価まで追跡調査した上での意見ではないが・・・

 

マニュアル人間が良いのか悪いのか・・・

推薦入試の結果は、明確な結論を与えなかった。

 

私としては、すべてに納得が行かない。

そもそも、多面的な評価を目的とする推薦入試において、形だけの無意味な公平性を導入し、選考過程をマニュアルで管理すること自体が間違いである・・・と思っている。これでは「多面的な」評価など、できるはずがない。

さらに入試だけではなく、大学において、また社会において・・・人々の評価の在り方に、多くの問題があるのではと思っている。

 

マニュアル的人間が行う評価は、マニュアル的人間を引き上げ、すべての実態を混沌の闇に葬り去る。

 

 

結局、推薦入試は、「小論文」と称して物理や数学の問題を記述式で解答させるなど、通常の形式の試験に近づく方向に変貌していった。そして面接については、その結果が合否になるべく影響を与えないように(文部科学省が許すぎりぎりまで)配点が引き下げられた。毎年の質問内容にも、殆ど変更が無く、また点差がつかないように、(例外的な場合を除いて)すべての受験者に平均的な得点を与えるように、申し合わせがなされた。

 

このような状況は、多くの国立大学で共通している。

 

続く