浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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マニュアル人間の精神構造3ー原発人の勇気あるマニュアル違反

(2)に続く 

 

沈みそうになった豪華客船で、添乗員が乗客に、海に飛び込むように指示する。その時、どのような言い方をするか?

 

ドイツ人に対しては「飛び込むことが規則である」と言い、フランス人に対しては「絶対に飛び込んではいけない」と言い渡す。

 

そして日本人に対しては・・・

 

      「 もう、みんな飛び込んでますよ~ !」

 

 

今では殆どの人が知っている、有名な小話である。

 

 

 共通の根

 

これまで私は、同じようなことを、様々な角度から何度も書いてきた気がする。

くどくなるのは老人特有の症状かもしれないが、理由の一つとして、私が気になる事柄の多くに、根の深い共通項の存在があるように思う。

  

マニュアル人間に関していえば、例えば「常識という名の同調圧力」や「無意味な仕事をする理由・させる理由」のシリーズなどに書いたことと、やや関係が深い。

 

赤信号、みんなで渡れば・・・」は、冒頭に紹介した小話と同類の、秀逸なジョークであるが、これもまた、マニュアル人間の精神構造と、深い関係があるように思える。

 

これらに共通するのは、「他人と同じであれば安心する」という日本人特有の心理であろう。

 他人と同じなら安心する・・・裏を返せば、自分が多数派でないと不安である・・・

 

そのため、他人にも同調を求めるのではないか。

 

 

そのためか、マニュアルに忠実であることを善とする人々は、他人にもそれを強く要求する傾向がある。意味が有るか否かを論ずることはせず、マニュアルに忠実であることに高い優先順位を与える。これに関しては、「ヒトと集団」のシリーズ等にも少し書いたと思うが・・・

 

私に言わせれば、自分の心の問題は自分で処理することが原則であり、他人を利用することは反則である。

 

  

マニュアルはなぜ作られるのか

 

誰かに命令されれば、当然ながら責任は命令者に属する。軍隊であれ企業であれ、それは同じであろう。しかし、学校や家庭はもとより、多くの組織で、責任は必ずしも明確でない。

 

責任が明確でない場合、マニュアルは便利な存在である。マニュアルを作り、それに権威を与えておく。さすれば、それに従っている限り、人は責任を問われなくなり、互いに安心できる。

 

 

マニュアル作成者は、責任を問われないのか?

 

すでに死亡していれば、問われない。聖書や法典などはその例かもしれない。

 

また作成者が多人数の集団であれば、責任は分割される。割り算の分母は、しばしば作成者の人数ではなく、集団のメンバー全員に拡大され、値は無限小になる。

 

したがって、所帯の大きい組織では、マニュアル作りが盛んになる。

  

 

 

理想的なマニュアルは存在するか

 

マニュアルを頭から否定する訳ではない。一般に、何らかの共同作業をする場合に、組織内で一定のガイドラインを合意し、明文化しておくことは、多くの場合に助けとなる。過去の経験の蓄積や先人の知恵が生かされていれば、なおさらである。

 

しかし、様々な方法があり、道筋にも多様性があるような事項についてまで、一つの方法、一つの手順に限定し、これを神聖化して臨機応変を禁ずることは、多くの弊害を伴う。

 

例えば、危機管理マニュアルなどという言葉があるが・・・

危機に際して、どのようなケースをも網羅し、すべてにベストな対応を示せる理想的なマニュアルの作成など、可能であろうか?

 

 

英国に滞在していた時、ある男が私に向かって

 

   「お前は何か問題が起こると、必ず誰かに責任があると思っている。

   それは間違いだ。 世の中には、誰にも責任が無い、不幸な事態という

   ものが存在するのだ」

 

と言い放った。自分に200%の責任があり、私に金銭的な被害を含む多大な迷惑をかけた上での発言であったので、あまりの厚顔ぶりに私はあきれた。

 

が、その時・・・一般論としてこの言葉は真実である・・・と思った。そのような事態は確かに存在する。その場合、社会は誰かを責めてはいけない。任にあった者の判断が、結果的に最善ではなかったとしても、である。

 

完全無欠なマニュアルの作成が可能と考えることは、明らかに間違いである。電気製品の取説と同じではない。状況は日々新しい。その都度、誰かが判断しなければならない。とくに、想定外の緊急事態において頼れるのは、鍛錬された知性と良心に基づく「良識」であり、誰かが作ったマニュアルではない。

 

周囲が適任と認める者が、最善を尽くした上での不幸な結果であれば、その責任は社会が共有しなければならない。

 

 

原発人の勇気あるマニュアル違反

 

そのような事態は、しばしば発生する。福島原発の記憶はまだ新しい。この時、吉田氏のようなサムライが所長の任にあったことは、不幸中の幸いであった。

 

未曽有の事態において、マニュアルを絶対視する習慣は良心に基づく判断を妨げる。慣習や前例至上主義も、同様に機能する。特に、マニュアル作成者に責任分散の意図が(多少なりとも)あった場合は、そうなりやすい。

 

吉田氏に指示を下した人々は、現在責任を問われている。危機管理マニュアルが実際に存在し、彼等がそれに従っていたのか、私は知らない。 が、報道されている一連の対応は、彼等が適切な知識や能力を欠き、現場を知らない人々であったという印象を与える。

 

少なくとも、現場の正確な状況と専門的知識に基づいて思考し、判断するという習慣を持っていなかったように見える。彼等の思考力は、前例や慣習に基づき、問われる責任の大小を判断するためにのみ、使われていた感が強い。

 

吉田所長が犯したのは服務規程違反であり、マニュアル違反ではないかもしれない。

いずれにしろ、彼が自分の保身を優先し、現場を知らない者の指示に従う人間であったとしたら、その結果は想像したくないほどである。

 

彼の判断が適切であったことが明らかになった後にも、それを否定する記事が散見された。いずれも専門知識を持たない者の無責任な記事であり、私は「回し者」が書いた可能性が高いと思っている。

 

筆者自身の意見であるなら、私は執筆者および出版社に対して、日本人はもう少し謙虚になった方が良い、と言いたい。軍事力のシビリアン・コントロールなどとは訳が違う。このような事例において、専門知識を持たない部外者の考えることが、現場における高度な専門家の判断を上回ることなど有り得ない。責任は社会が共有するしかないのである。

 

サムライは少なくなった。吉田氏の冥福を祈る。

 

(完)