浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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戦後教育の変遷6 ー 和をもって貴しとなす国の民主教育(後編)

 

 

前回の記事の続きで、「差を可視化させない」という戦後の平等教育を、もう少し考えてみたい。

 

 

制服論争

  

私の出身高校は、生徒の管理については、極めて控えめであった。例えば、すでに制服は形骸化していた。校則としては制服着用が義務付けられていたが、全員が制服を着ていたのは中等部だけで、高校生になると半数以上が私服で登校するという、当時としては世にも稀な自由な校風である。男子校であるがロングヘアーの生徒も多く(これは当時、現在のモヒカン刈りより珍しかった)、そのため通学のハブ駅になっている渋谷の周辺では、大幅に遅刻してきた生徒が婦人警官に補導されることが多かった。

 

しかしそれでも・・・私の在校時代、生徒たちは満足せず、軍国主義の匂いのする詰襟の学生服を、はっきりと校則から追放することを望んだ。

 

多くの生徒たちは、自分たちの学校をさらに自由にしたい、というより、社会に対してメッセージを発信したい、という欲求が強かったように思う。私自身も、日頃は学生服を着用していたが、制服廃止を支持していた。

 

その生徒会の動きに対して、ある教師が次のように述べた。

 

   「全生徒が私服で登校するようになると、服装において

    家庭の経済格差が歴然となる。君たちの多くは衣服に

    不自由しない家庭に育ってきたと思うが、そうでない

    人々もいることを忘れないで欲しい」

  

自由な校風であっても、それを不適切とする教員もいる。多くの生徒は、経済格差を持ち出すことは校則を維持する口実にすぎない、と感じていた。「そうでない人々」に属していた私も含めて・・・

 

今考えると、これは本心からの言葉だったのかもしれない。テニス部の顧問の先生の言葉とも共通点がある。

 

ただ、これらは「差を可視化させない」という発想だけでなく、むしろ時代感覚の問題のようにも思える。

 

衣食足りた後、次の時代には、人々の優先順位に個人差が現れる。そして平等の意味が変わってくる。

もはや平等とは、「皆が同じものを着る」ことではない。「誰でも好きなものを着る」ことが平等である。

 

物理的な条件、あるいは物質的な条件を同一にすることで平等感が得られるのは、皆が同じものを求めている場合である。そうでない場合に一律平等則を当てはめれば、退部したテニス部員の場合のように、自己実現を阻害され、不当に不利益を強いられたという不平等感を持つ人々が出てくる。

 

 

ちなみに、私が大学を卒業するころ、母校では制服が正式に廃止になった。高等部はおろか中等部までも・・・今から50年近くも昔のことである。

 

 

管理主義と平等

 

今ではユニクロ等の若者ファッションに比べて、制服の方がずっと高額である。購入する費用が重い負担となっている母子家庭などが、しばしば番組で紹介されている。

とくに私立や一部の名門校では非常に高額になり、デザイナーに新作を依頼するなど、ステータスを競っている。皮肉にも、制服の存続が経済格差を可視化させている感がある。

 

庶民が通う公立の中高でも、学生服の方が一般服より高額である。が、やはり制服は無くなっていない。名門校でどのような生徒管理をしているのか、私はよく知らないが、いずれにしろ、制服はやはり、生徒を管理するために存続しているように見える。

 

女子のパーマは禁止されている。さすがに、天然の茶髪を黒く染めさせたり、男子の丸刈りまで強制する学校は殆どなくなったが・・・これらは経済格差を隠すためでないことは明らかである。

生徒管理を全面的に否定するわけではないが、靴下の長さから髪の毛まで条件を同じくさせようとする真の理由は、何であろうか? 「容姿の平等」・・・なのか? 

 

戦前教育の名残・・・と捉えていたが、当時高校生だった私が古希を迎えた現在でも、多くの習慣が存続しているところを見ると、どうも戦前からのヒステリシスだけではないようだ。私自身、良くわかっていないが、管理主義と平等主義には密接な関係があり、これが原因しているように思える。

 

管理体制の在り方は、管理する者とされる者の人間関係だけでなく、管理される者同士の人間関係にも影響する。

 

当然ながら管理される側は、少なくとも平等に扱われなければ納得しない。

 

そしてこれを受け入れたが最後、管理される者は、貧しさを共有する集団を形成する。

行動の自由において・・・心の自由において・・・

そして多くの場合、寛大さにおいて・・・

 

 

管理されてきた者の一部は、いずれ管理する側に立つ。

  

誰も指摘しないが、一向になくならない学校でのいじめの構図なども、この一連のサイクルに原因の1つがあるのではないか、と私は秘かに思っている。

 

 

個人が豊かさを無制限に追求し、誇示する社会は、貧しい社会である。

 

豊かさをむやみに抑制し、過度に平等を進めると、やはり貧しい社会となる。

 

 

自由は、豊かさである。

 

寛大は、豊かさである。

 

管理による平等は、豊かさを生まない。

 

互いに足を引っ張り合う平等は、貧しさであり、和の精神からも遠い。

 

 

 

(続く)

 

 

戦後教育の変遷5 ー 和をもって貴しとなす国の民主教育(中編)

 

 前回の記事から続く

 

平等主義の台頭

 

「和を以って貴しとなす」を実践することは、人々が不公平感を抱いていれば難しい。平等と感じられる社会であってこそ、「和」は達成目標と成り得る。

 

前回の記事で書いたように、戦後の民主教育は伝統的な和の精神との融合を目指していたように見える。そしてそのため、戦後の日本の社会では、民主と平等は切り離せない概念となった感がある。

 

しかし・・・

議論 → 対立 → 不和 ・・・の危険と隣り合わせのまま、議論により和を達成することは困難を極める。和の実現のために人々が求める平等が「結果の平等」になることは、避けられないのかもしれない。

しばしば「日本型共産主義」などと揶揄する人々がいるが。

 

かくして、結果の平等の思想は、教育の現場にも持ち込まれた。

高度成長の一時期、初等教育の現場では、運動会で子供たちに手をつないでゴールさせるなど、結果の平等を強調する姿勢が顕著になった。

 

手をつないでゴールする運動会は、長くは続かなかったが、教育の現場では、今でもこの考え方が根強く残っている可能性がある。 結果を平等にすることはできなくても、差を可視化させない、という考え方である。

 

 

蛙は井の中におれ!

 

時代は少し遡るが、私は高校卒業の2年後、母校のテニス部の合宿に、コーチ役として参加した。在校時代、私は部長を務めていた。

 

この学校は部分的な中高一貫教育で、半数が中学校からの持ち上がりである。この合宿も、中高合同で行われていた(私自身は高校からの入学である)。

スポーツに関しては自他ともに認める貧弱校であったが、その時、中学生の1人が、珍しく全国レベルに成長できる逸材と期待されており、顧問の先生(2人)は彼を高校生の部に組み入れて練習させることを考えていた。顧問の一人は、私が在学中にお世話になっていた若い先生である。もう一人は他校から転任してきた初老の先生で、私は初対面であった。

 

その後、顧問の先生たちは、この中学生の部員について、「彼は井の中の蛙で慢心しており、特別扱いは教育上好ましくない」として案を撤回した。

 

話によると、学校の部活動だけでは物足りず、コーチ付きの民間クラブの会員になり、指導を受けたい、と父親と共に申し出たそうである。

 

クラブの会費は、相当に高額であったと予想される。が、当然ながら学校の部に彼の欲するレベルの練習相手はいない。練習時間も、スポーツ入学の生徒を抱える強豪校のように毎日できるわけではない。2面しかないコートは、軟式テニス部との共同利用である。本人としては物足りず、親も本人を応援したかったのであろう。

 

顧問の教師は「他の部員と同じ条件で努力するように」と指導し、合宿での特別扱いも取りやめた、とのことであった。

 

 

私は口出しは控えたが、この指導には違和感を感じた。

 

彼が実際に慢心していたかは知らないが、仮にそうであれば、本人に思い知らせる方法は、一つしかない。井の中からつまみ出し、大海に放り出すのである。「お前はまだ大海を知らぬから、井の中におれ!」では、理屈が合わない。

 

理屈は合わないが、当時はこのような考え方をする人々が多かった(今でも時々見られる)。これには表向きの理由と別に、真の理由があるように思えるが、私には昔からよく理解できなかったことの1つである。

 

教育者の判断としては、やはり「差を可視化させない」ということであろうか?

「特別扱いは教育上好ましくない」というのは、本人ではなく他の生徒の・・・

 

それも、少し違う気がする。

他の生徒との関係で言えば、いじめに遭わないように、という親心はあったかもしれない。社会に出てからのことも考えて・・・

 

そもそも、いじめに遭う理由は何だろうか?

  

この生徒はその後退部した。おそらくクラブの会員になったと思われる。

 

 

貧しさの時代

 

この頃、教育界でしばしば叫ばれていたのが「教育の機会均等」という掛け声であった。思い出してみると、「他の人々と同じ条件で」という言葉は、お世話になった顧問の先生からも、在学中にしばしば聞いていた。思えば、違和感はすでに、この頃から感じていた。

 

管理によって一律に低い条件に合わせるのは、結果の平等を目指している訳ではないが、結果を平等にさせる方向である。より良い条件で努力することを封じるのであるから、差を可視化させない、というだけでは済まない。

 

今では文部科学省も、機会均等とは「意欲と可能性のあるものに積極的に機会を与える」ことを意味する、とたびたび明言しているが、

この点が強調されること自体、「与えないことで均等化を図る」という貧乏平等主義が存在していたことの証左であろう。

 

高度成長に乗ったとはいえ、この時代の日本は、まだあらゆる意味で、貧しかったのである。学校教員は、様々なことに気を配る必要があった。

 

このような気配りが、個人に対する行き過ぎた指導、集団に対する行き過ぎた管理教育に発展した側面はあったと思う。

 

そしてそこに、戦前教育の様々な名残が影響した可能性も否定できない。

 

(続く)

 

戦後教育の変遷4 ー 和をもって貴しとなす国の民主教育(前編)

前回の記事から続く

 

最近のある番組で、コリアン・レポートの辺真一氏は、「北朝鮮は戦前日本の落とし子である」と述べておられた。

 

実際、私は北朝鮮の映像を目にすると、いつも小学生時代の運動会の光景を思い出す。辺氏の言葉通り、戦前の日本の学校教育は、現在の北朝鮮に酷似していたのではないだろうか。

 

 

民主教育とマスゲーム

 

第2回目の記事に書いたように、当時の教育現場は、平和教育・民主教育に対する歓迎ムードに溢れていた。実際に、初等教育が軍国的な基調から大きく変わりつつあることは、子供たちにも解っていた。

 

しかし、変化したようでいても、現場は一朝一夕に変わるものではない。私の小学生時代、学校では戦前からの延長とも言える「おゆうぎ」というマス・ゲームが盛んであり、運動会などでは、父兄もこれを微笑ましい風物詩として歓迎していた。

 

これについて当時、学校は父兄や生徒に対して、「民主教育の一環」としてのマスゲームの重要性を、ことさらに強調していた。戦勝国においても教育にラグビーなどの団体競技が取り入れられていることが、引き合いに出されていた。

 

しかし、マスゲームと民主教育を関連付ける教育関係者の言葉は、子供心にも言い訳がましく、不自然に聞こえた。率直に言って「従順な心を養う訓練」としか思えず、その雰囲気に違和感がつきまとったこの行事は・・・ 戦前と同じことを、続けているのではないか・・・? 

 

その思いは今も変わらない。別の記事にも何度か書いたが、朝礼など、今なお人々に抵抗なく受け入れられている多くの学校行事を見るにつけ、訓練の成果を目の当たりにしている気がする。 

 

 

伝統と融合した民主主義

 

現在の初等教育の現場で、マスゲームがどの程度重要視されているかは知らない。が、当時の学校教員の多くは、戦前から継続して勤めていた人々である。日々の活動には当然ながら、歴史的な連続性がある

 

実際に、GHQの指導により短期間に導入された戦後の「民主主義」の理念は、様々な混乱の中で、現場の工夫により、戦前の集団主義に絶妙に解析接続されてきた。

 

私の記憶では、当時の学校教員の多くが「友達同士仲良くせよ」ということを、日々、繰り返し強調していた。これはGHQの「平和教育」の方針に従ったものであろう。

そして、高学年になってしばしば、これに関連して引用されたのが、「和を以って貴しとなす」という、聖徳太子の17条憲法の言葉であった。

 

新しい考え方は、伝統に適切にマージして、初めて人々に受容される。17条憲法に書かれていた言葉が、新しい民主教育に最も容易に接続できる精神だったのだろう。これは父兄にも、恐らく子供たちにも、受け入れられる考え方であった。

 

この言葉の本来の意味は別として、新しい教育課程の中で培われた日本の民主主義の概念は、結果的に、議論を深めることを原点とする西欧民主主義と大きく異なるものになった、と私は思っている。

 

議論 → 対立 → 不和・・・を必然の流れと考える人々にとって、議論を深めることは、和の精神に背くことであるようだ。

 

子供たち同士で口喧嘩が始まると、掴み合いに発展する前に、教員がやって来て、適切な議論をきちんと行うように指導する・・・ということは、私の記憶する限り、一度もなかった。

 

教員は「仲良くしなさい」を連呼し、そこで争いを中断させる。実際に掴み合いが始まっていれば、「どちらが先に手を出したか」だけが問題にされ、怒らせて原因を作った者が叱責されることは、殆ど無い。

 

抗議を申し入れる際の正しいやり方、それに対する誠実な対応・・・

過失があれば丁重に謝罪し、誤解があればきちんと説明する。抗議する側はこれに耳を傾ける。

 

このような基本は、むしろ戦前の教育の方が、しっかりしていたのではないだろうか?

 

戦後の民主教育は、単に争いを禁忌するのみで、文化的な先進国では(家庭でも学校でも)最も重視する基本的なマナー教育を、殆ど与えて来なかった。その結果、日本の社会の姿は、幼稚園の砂場の感がある。

 

国際紛争など解決困難な多くの問題について、西欧民主主義は限界を露呈しつつあり、私は日本流の解決方法をむやみに否定するものではない。

 

しかし、多数決に従うというルールのみを取り入れ、議論して互いに理解を深めるという視点を欠けば、たちまち問答無用の集団主義に移行する危険を孕む。実際に、日本の社会では、戦後も実質的な集団主義が至る所で発生してきた

 

平和国家の建設という点では大きく前進したが、戦後の学校教育は現在まで、社会の意思決定のシステムを根本的に変えるには至らなかった。

 

ただ幼稚園の砂場も、最近は子供たちがずいぶん行儀良くなったように思う。今後に期待したい・・・

   

(続く)

戦後教育の変遷3 - その後も続く教養教育

 前回の記事から続く

 

 

今でも続く大学の教養教育 

 

GHQが大学の数を増やしたのは、文教予算の比率をできるだけ増やし、軍事費に回す余裕を与えないことが目的だったとも言われている。

 

ただ公平に見て、様々な憶測が囁かれる中で、GHQの政策には一定の理念もあったように私は感じている。

実際に、米国は国民教育の普及に熱心な国である。最近日本でもしきりに叫ばれるようになった生涯教育の考え方や、副専攻など多方面の「教養」を重視する考え方も、米国が源流である。

 

米国のドラマを観ていると、人々がハイスクール時代に学んだ歴史の知識などをチラリとひけらかす場面を、時々目にする。これは英国のドラマでは見たことがない。米国文化はしばしば、経済中心で退廃的な傾向が強いと批判の対象になるが、意外にも米国人は国民性として、「教養」に重きを置く。私は実体験として知っているわけではないが、これは企業間の交流でも、しばしば信用度の点で重要な要素になり得ると聞く。

 

ただ、米国の本来の考え方としては、教養を人文科学に限定する思想はなかったはずである。米国は戦前から女子大において化学実験の授業を推進するなど、自然科学の普及にも熱心であった。

これに対して日本では、人文系の学問を教養と見做す傾向が強い。この点については今後の記事で私見を述べたいが、その理由の一つとして、GHQが日本の新制大学に教養教育を持ち込むにあたり、平和教育と工業力弱体化の2重の意図があったためと想像される。

 

戦前の日本の教育体系は、ヨーロッパ型の専門重視であった。日本に限らず、人文系教育の軽視が軍事国化を誕生させる一因となっていた、と米国が考えたのは確かであろう。米国は、似たような占領政策をドイツにも実施している。

とくに日本の場合、教養教育の比率は馬鹿げたものであり、そこに日本の工業力を削ぐ意図があったことは、紛れもない事実と思われる。これが、単位数にして膨大であり、内容にして実質の乏しい「一般教養科目」の始まりであった。これが現在まで引き継がれている。

  

 

消えた姉妹提携

 

個人的な体験談で恐縮だが、私が英国に研究員として滞在中に、勤めていた大学当局から、私の出身大学と姉妹校の提携を検討したいので、ヒアリングに応じて欲しい、との要請があった。

単位の相互認定や交換留学などを含む制度であり、事前に日本の大学の教育体制や教科内容などを知りたい、というのである。

 

たまたまその時期、母校の大学院生が、共同研究のため化学系の学科に滞在しており、彼は学生便覧を携行していた。私はこれを借りてヒアリングに臨んだ。

 

これは私にとって、非常に苦しい場となった。

私が配布した便覧の抜粋コピーでは、科目名が日本語と並び英語表記されていた。私としては余計なものまで見せるつもりはなかったが、あるページの一部に、専門とは明らかに無関係な、非常に多様な科目名が並んでいることに彼等は気が付いた。そして、何を学ぶ学科なのか、との質問が相次いだ。

彼等は「教養科目」という概念やその目的を理解できず、私は一つ一つ、趣旨などを解説しなければならなかった。そして必修科目の単位数、分類などを説明すると、あまりの科目数と多様性に、参加者の多くは首を振り、ため息をついた。

 

第2外国語が必修になっているくだりでは、失笑という程ではないが、かなり白けた空気が漂い始めた。日本人の英語の貧弱さは周知の事実である。もちろん私の話していた英語は、それを裏付けていたはずだ。

「体育実技」がPhysical Excercise と英語表記されていたところでは、「物理学の演習の意味かと思われるが、英語表現が適切でない」と丁重にアドバイスされた。そして、これが実際にGymnastics であるとわかると、爆笑が巻き起こった。

 

結局、専門科目の説明に進む前に、この段階でヒアリングは打ち切られ、提携話は立ち消えとなった。

 

ちなみに、教養科目に体育実技が含まれているのは、戦前の日本の大学が多くの「軍事教練」の教官を抱えていたためである。当然、米国側は教練の廃止を強く申し入れたが、日本側は雇用を守るとしてこれを押し返し、苦肉の策として、「体育」として教養教育に取り込んだそうである。

 

(続く)

戦後教育の変遷2 - 占領政策と教養教育

 

 

前回の記事から続く

 

敗戦後のGHQ占領政策により、日本の教育は根底から変えられた。

私が小学校に入学したのは、それからおよそ10年後である。 

 

墨塗りの教科書から

 

戦後の新課程は、民主教育の掛け声のもとに、過去を清算する再出発として国民に歓迎され、希望を持って始められた。

 

新しい教育制度の理念が、中等教育(小・中学校)の現場を閉塞感から解放し、明るくしたのは確かであろう。といっても、当初はまだ戦前教育の名残があり、私が学齢期に達した頃も、学校はまだ変化の途上にあることが、子供心にも随所に感じられた。

 

当時私の家には、ページのあちこちに墨が塗られて読めなくなっている戦前の教科書が、まだ何冊か捨てられずに残っていた。私自身はこれらを使った世代ではないが、最近、女性蔑視の発言で国内外からの顰蹙(ひんしゅく)を買った政治家はこの世代に属する。

 

戦前教育の影響は、この頃は1年単位で大きく減衰して行ったと思われる。その後は減衰が鈍ったのか、私の感覚としてはまだ影響が残っていると思えるが・・・

 

それはともかく、占領政策によって、具体的に日本の教育は、どのように変わったのか?

 

 

平和教育新制大学

 

まず大学教育について述べよう。実は、占領政策による教育改革の実態を知ったのは、私自身、かなり最近である。

私は在職時代の後半に、各大学からの代表で構成される定期的な教養教育の研究会の委員を5年ほど務めた。私の任期の最後の年に、この研究会は終了したが、その最終回にあたり、文部省のOBが招待講演に招かれて、戦後の大学教育の歩みを振り返るトークを行った。

 

ここでOB氏はGHQの政策について、非常に踏み込んだ紹介を行って参加者を驚かせ、この時はじめて、私も実態を知ることになった。これは恐らく、それまで決して公にされなかったものであろう。

 

OB氏の話によると、GHQによる教育への介入には、2本の大きな柱があった。一つは民主教育、平和教育の徹底である。これは公にされ、良く知られている。しかしGHQはその他にも、実に様々な変更を指示しており、これは軍事的な政策としての意味合いが強かった。

 

日本の教育制度の改変を担当していたのは、たった一人の軍人であった。その基本方針は1枚の紙片にまとめられていた。これがアメリカ政府の意向を伝える金科玉条として、その後半世紀にわたり、日本の文部行政を支配することとなった。

 

そして1個人の案にもかかわらず、日本は半世紀にもわたり、この文書に抵触する可能性のある如何なる教育上の施策も、内々に米国政府に打診し、承諾を得なければならなかったそうである。そして米国側は常に、この文書を米国の正式見解とする姿勢を崩さなかった。

 

私はそれまで(おそらく他の殆どの教員も)、カリキュラムの枠組みは文部省が立案し、これを大学に強制しているものとばかり思っていた。実態はそうではなかった、と彼は苦しかった日々の思い出を吐露した。

 

直接的な表現を避ける慎重な言葉使いながら、話の骨子は明確だった。GHQの教育政策の目的は、日本の非軍事化であり、将来にわたり、日本が再軍備の方向に向かうことを阻止することであった。そしてそのためには、日本の工業力を削ぐ必要があった。とくに、軍需産業に直結する可能性のある航空分野や重工業は、解体を余儀なくされた。

 

つまるところ米国にとって、日本の高度な理系教育を弱体化させることが必要だったのである。そのため、GHQはそれまでの旧制高校をすべて大学に昇格させ、徹底した平和教育を中心とする、膨大な文系科目のプログラムを「教養科目」として用意させた。

 

これらは新制大学と呼ばれ、これにより大学の数は飛躍的に増えた。そして同時に高等師範学校、さらに「輝ける専門学校」と呼ばれ、日本の学校教育で最も成果を上げていた技術系の専門学校のいくつかが、新制大学に格上げされた。そして技術系教育は事実上解体され、教養教育中心の課程が組まれた。

 

GHQはまた、同様の教養教育のプログラムを、「帝国大学」にも持ち込んだ。これは大学院にまで及び、最初に示された案では、博士課程になってはじめて、ほんの僅かに専門の単位があるのみ、という有様で、学部はおろか修士課程までもが、オール教養プログラムだった。

 

(続く)