浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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奇跡のリレー 5

(前回から続く)

 

帰国

その後、私は日本に職を得て突然帰国することになった。その慌しさのため執筆はさらに遅れ、結局その2編を書き上げたのはオーストラリア人の訪問から約半年後のことである。出発の直前になっていた。

 

母国に常勤の職を得たことをY教授は心から喜んでくれたが、手書きの論文原稿を受け取りながら「君が最初からこれをやってくれていたらね・・・最後にもうひとつ、プロジェクトを申請できたと思うが・・・」と溜息をついた。

 

彼は実に寛大な上司であった。著名な研究者であったが、私を助手に採用した直後に学部長の激職に就き、研究の現場から離れることを余儀なくされていた。彼の研究計画は頓挫しており、別のことをやり始めた私は協力者として期待はずれであったに違いない。しかし、駆け出しの研究者の自主性を尊重し、私の身分をずっと継続してくれた。

 

これは、彼自身の研究者生命を縮めてしまった。私は彼の最後の助手であった。彼は、後任の助手は採らず、学部長を退いた後は、定年を待たずに大學を去ると話した。

 

研究上の協力をほとんどできなかったことは、今でも申し訳なく思っている。最初の段階で追求が浅かったために展望が拡がらず、計算メモから一気に持っていけなかったのは、ひとえに研究者としての未熟さであった。

 

論文を書くように命じられたときには、無茶を言われたように思ったが、一歩を確実に踏んでこそ、次の展望が開ける。教授はポイントを熟知していた。私は滞在の最後になって、引退する彼から大切な基本を学んだ。

 

出発の日

帰国の際には、教授をはじめ教室の全員が心のこもったパーティで私を送り出してくれた。この日までに、秘書さん達は、手分けして論文のタイプを間に合わせてくれた。忙しいさなかに彼女たちが用意してくれた、お祝いの言葉で飾られた手作りのケーキとキスの祝福は忘れられない。私はガードマン氏をはじめ、人々と心からの握手を交わした。

 

 

恵まれた環境で修行時代を過ごせたことは、私の最大の幸運である。思い返せば、私は常に周囲の人々に最大の便宜を図ってもらっていた。短期の研究員を継続するという不安定な身分であったが、隠微な妨害や悪意に出会ったことは一度もなく、私も私の家族も、常に快適に過ごせるように、人々が気を遣ってくれた。

 

多くの励ましと善意がなければ、私は学問を断念していたかもしれない。努力に対して人々が支援の手を差し伸べる社会はありがたい。これは競争社会の考えからは生まれない。人々が少しずつ助け合いの精神を持てば、その繋がりは網の目のように社会に広がり、奇跡のリレーは様々なところで起こるであろう。ときには人の命を救うこともあるかもしれない。

 

私の場合には、ささやかな個人的な出来事であったが、私の人生に多くをもたらしてくれた。

 

月日は流れ、私は当時のY教授を大きく超える年齢となったが、今でもこの分野には格別の愛着と感謝の念を抱き、少ない守備範囲の一つとして研究を続けている。

 

(完)