浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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ガラパゴス列島の受験社会Ⅲ

 

前回の記事では、現在多くの国々で、若い人々を評価する共通基準として学業成績が使われていると書いた。

 

日本の社会では、しばしば「学歴信仰」などという表現まで使われているが、これは「人間の社会は神話によって形成されている」というユヴァル・ハラリの主張を裏付けるものかもしれない。

 

現在これは国内だけの承認にとどまらず、アカデミック・キャリアとして、国際社会での相互承認のレベルにまで発展・確立されている。

 

 

社会制度化された学歴

 

私の在職時代の話である。私はその年、学科長を初めて務め、初仕事として成績不振者への対応に追われていた。

 

早急に対応しなければならないのは、卒業研究のための研究室配属が見送られた4年生である。父兄に連絡を取り、卒業が少なくとも1年遅れることを、通知せねばならない。

 

その中の一人に、在籍年数を限度まで延長しても、卒業そのものがもはや難しいと判断される学生がいた。すでに前任の学科長が対応すべきだったケースである。授業料のみを搾り取り続ける詐欺行為になってはいけない。私は父兄を呼び出し、退学を勧めるとともに、就活の援助を申し出た。

 

彼は郷里である地方都市の実家に近い、小さな会社に就職が内定した。バブル初期、求人難の時代である。中退とはいえ、国立大学に合格した人材を採用できることに社長は喜び、推薦状を書いた私に、丁重にお礼の品までお送りいただいた。私は、公的には出せないものの、個人として精一杯の推薦状を書いていた。

 

その後、私は人事担当者から電話で、大学として彼に短大卒程度の資格を出せないものか、との相談を受けた。会社としては彼を高卒以上、大卒未満の扱いで採りたいが、組合を納得させられるものが必要、というのである。

 

そのようなことはできるはずも無い。私は困り果てた。大卒の組合員ではなく、非大卒の組合員が納得しないとのことである。これは私の理解を超えていたが・・・いずれにしろそのとき私は、学歴は制度の1つとして、社会に組み込まれていることを、初めて自覚した。

 

 

学業を評価基準にすると言っても、これはたやすい作業ではない。異なる地域、異なる学校での学業成績は、直接の比較ができない。採用する側では何らかの基準を、あらかじめ合意しておく必要がある。

 

その結果、高校、大学、大学院・・・などの「最終学歴」でまず判断することになる。そして最終学歴によって賃金体系が異なることを、労働組合は了承する。法律もこれを差別とは見做さない。

 

こうして、最終学歴は多くの国々で、組織内の序列とは独立した基準として、社会制度の一部に組み込まれて行ったのだろう。

 

 

ちなみに、このとき私は、会社の人事部に再び個人としての所見を書き送った。学科の専門性は理系全体の中ではやや特殊であり、本人はこれに適さなかったものの、社会人として十分な見識と能力を有すると判断される、などと書いたように記憶する。これをもとに、組合との折衝はそれなりに進められたそうである。このような扱いは、今では難しくなっているかもしれないが。

 

両親は息子の地元での就職を大層喜び、その後何年にもわたり、年の瀬には地元の名産品をお送りいただいた。

 

 

就職難と学歴信仰

 

相互に承認され、社会制度に組み込まれた学歴主義は、すでに戦前から始まっていたが、戦後はこれが非常な高まりを見せて来た。

 

実際、日本人の学歴信仰の強さは、世界に類がない。第2次大戦の敗戦によって、国を導いた多くの学歴エリートは国民の信頼を失ったと思うが、人々の信仰は揺るがなかった。このメカニズムは、人造ダイヤの出現の場合と同様に不思議である。

 

ただ異常な高まりは、戦後間もなくの昭和前期から中期までの期間に起こり、ここに大きな要因として、就職難があったことは間違いない。理工系に人気が集中し、学費の安い国立大は難関であった(私の在学当時は国立大学の授業料は月額1000円だった)。戦後の飢餓状態の記憶が生々しい当時の人々にとって、進学は経済的安定のためであり、製造業を中心とする経済復興が理工系ブームを牽引した。

 

私は団塊の世代に属するが、確かに関東では、国立大やメジャーな私立大の理系の就職は非常に良かった。当時は大学院進学者はまだ少数であり、大半が学部を卒業すると企業に就職した。完全な売り手市場であり、殆どの学生の就職活動は、卒研の教官に希望の企業名を告げるだけであった。

 

私より少し上の世代では、4年生になって会社訪問などすれば、酒池肉林の接待を受け、帰り際にはポケットに現金入りの封筒が捻じ込まれたそうである。10万円が相場であり、夏休みにこれで数百万円を稼いだ学生がいたと聞く。当時の物価では(恐らく今でも)学生に不相応な額であり、教育上も好ましくないので、私たちの頃には大学・企業間の申し合わせで、この習慣は無くなっていた。

 

ちなみに、当時はまだ関東と関西で、進学熱に差異が見られたように思う。関東では戦前からのヒステリシスで、学歴をステータスと見做す傾向が強く、これが受験過熱を後押ししていた。一方関西では、権威に背を向ける気質が根底にあり、また大企業への就職より個人ビジネスを評価する風土があって、関東ほど学歴重視でなかったように見える。

 

 

共通一次試験の導入

 

国立を中心とする高い理系人気はしばらく続いたが、私が大学を卒業するころから、受験界に大きな変化が起こり始めた。高度成長が本格的に軌道に乗り始めた頃である。

 

当時、大学受験者数は私たちの世代をピークとして、次第に18歳人口に比例して減少し、数年後に私立大学の多くは経営危機に陥る、と誰もが予想していた。予備校なども、すでに閉校の準備を始めていると噂されていたが・・・

 

その予想は大きく外れた。

 

国民所得が上昇したためか、進学率が大きく上昇し、大学受験者数は増加し続けたのである。進学熱は増々高まりを見せ、文部省は受け皿として、既存の私立大学の定員増と規模拡大、さらに新しい私立大学の新設を次々に認可した。予備校は閉校どころか、首都圏の大手は全国規模に展開し、さらに新しいものが雨後の筍の如く、続々と生まれた。

 

 

そしてこの頃、大学入試そのものに、大きな変化があった。共通1次試験と呼ばれるマークシート方式の全国一斉試験が導入され、国立大学の入試は大きく様変わりしたのである。

 

文部省は当初、国立大学の入試をすべてこれに統一する方向を示したが、主要大学はこれに強く反発して押し返し、その結果、従来通りの入試を2次試験で行う2段階の選抜方式となった。それまで2段階選抜の入試を行っていたのは、ごく一部に限られていたが、それがすべての国立大学に拡大された形になった。

 

共通一次の試験科目は英・数・国に加えて理科2科目・社会2科目であり、全ての国立大学で、受験生は勉強する科目数が増えることになった。試験問題は平易だったとはいえ、これは(少なくとも心理的には)国立大学を受験する場合の負担を増大させ、その後じわじわと、受験生を私立大学へ向かわせる流れを作った。

 

 

囁かれる共通一次の真の目的

 

共通一次試験は、大学の入試問題に難問・奇問が多いとの社会的批判に応える形で、「入試地獄を緩和する」という名目で導入されている。しかし科目数の増加や2段階選抜など、実際には受験生の負担は以前にも増して重くなり、入試地獄はさらに苛酷になった。

 

共通一次試験は、本当にそのような目的で導入されたのか?

 

当時、国立大学関係者の多くは、これを文部省の私学振興策と受け止めていた。この説は、当時は(まだ学生であった)私の知るところではなかったが、その後かなりの時を経て私が教員の一人となったとき、根強く語り継がれていたこの話を聞いた。

 

大学内では、文部省と直接の折衝を行う学長ら執行部の人々から、一般には報道されない種々の情報や、彼らの個人的な感触が漏れ伝えられる。この解釈はその中で生まれたものであり、背景として文部官僚には当時、省庁として例外的に私大出身者が多かったという事情があった。

 

文部省はすべての国立大学を共通一次に強制参加させたが、私学にはこれを強制していない。事実、殆どの私立大学は不参加であった。国立大学に対しては、「難問・奇問のない標準的な入試問題」による入試の統一を目論んだが、これについては大学だけでなく他の省庁(とくに当時の大蔵省)の怒りを買い、文部省は諦めざるを得なかったという。

 

共通一次試験はまた、天下り先を持たなかった文部省が、その新規開拓を図った施策とも囁かれている。事実、共通一次試験の問題作成、印刷、実施、採点などの業務を司る大学入試センターは、多くの職員を抱える巨大な組織となり、後に多くの関連組織・関連企業を作り出す出発点となった。

 

真偽のほどはともかくとして、これほどの巨大組織を潰して共通テストを廃止することは、もはや不可能である。文部省は批判が出る度に名称を変え、実質を変えずにこれを継続した。これは今後も、末永く続くであろう。

 

 

連動した授業料値上げ

 

文部省はさらに、ほぼ無料に等しかった国立大の授業料を段階的に値上げし、やがて私立大学の半分程度に達する額まで引き上げた。これも国立大学関係者は、国立大学の優位性を削ぐための連動した政策と受け止めている。

 

これについて文部省は「学費負担の不公平を是正する」と説明し、これは好感をもって国民に受け入れられた。当時すでに、学生数において国立大学の割合は10%程度に低下しており、「教育の機会均等を損なう」との反対の声は搔き消された。

 

国立大学の無料化は、その後何度も議論されてきたが、文部省は今でも同じ説明を繰り返している。そして日本は、教育格差社会への道を、確実に進んで来た。

 

 

共通一次導入と教育格差社会の関連については、次回にもう少し詳しく考えてみたい。

 

(続く)