ガラパゴス列島の受験社会Ⅵ
このシリーズの第3回、第4回の記事で、都立高校の学校群制度や大学の共通一次試験の導入について書いてきたが、これらはやがて日本人の学習を変えてしまうほど、影響の大きいものだった。
どのような影響があったかについては、いずれ詳しく書きたいが、これから暫くの間は時計の針を巻き戻し、まずそれ以前の日本で、初等・中等教育がどのように変遷してきたかを見て行こう。例によって、理系教育が中心になるが・・・
ちなみに私の育った家には、大正生まれの父が戦前の旧制高校時代に使った参考書類が、物置に大量に眠っていた。これに加えて、私の10年上、5年上の兄姉たちが使用した参考書も数多く散在していた。私は中学時代からこれらに目を通しており、私の観察にはそれが加味されている。
もちろんそれに加えて、私自身が受けた教育があり、また在職中の入試問題作成や大学カリキュラムの構築などの経験を踏まえている。
ただ私は浦島太郎であり、海外滞在中の期間が抜け落ちている。そこは伝聞や推測で補いつつ、できるだけ連続的な解析接続を試みるが、その間に進行した変化が日本の理系教育の劣化に最も深刻だった気もしている。
スプートニク・ショックと教育高度化の波
私の小学生時代、世界は東西冷戦の真っ只中にあった。
そこで2つの大きな事件があった。一つは、米ソ核戦争の一歩手前と言われ、世界が固唾を呑んだキューバ危機、そしてもう一つはその1年前、「地球は青かった」の言葉で知られるガガーリンの、人類初の有人宇宙飛行である。
実は当時のソ連は、ガガーリンの有人飛行に先駆ける数年前に、すでに人類初の人工衛星、スプートニク1号の打ち上げに成功していた。西側諸国に最も強烈なショックを与えたのはむしろこちらであり、上に述べた2つの大事件は、その上塗りであった。
米ソの宇宙開発競争は軍拡競争と表裏一体である。スプートニクの打ち上げ成功は、科学技術レベルにおいて、共産国が自由主義陣営を凌駕していることが明白になった瞬間であった。
アメリカ議会はこれを深刻に受け止め、大統領自身が「自分たちは遅れている」と明言し、その後 J.F.ケネディ大統領はアポロ計画を立ち上げ、月面着陸においてソ連に先んじることを公約に掲げた。
この計画を実現すべく、米政府は有力な大学の科学者に協力を要請してプロジェクトを組み、まず自然科学教育の高度化を目指す抜本的な改革に着手した。
ここで次々に生まれたのが、有名な「バークレー物理学コース」や「ファインマン・レクチャー」などの、優れた教科書シリーズである。この2つのシリーズは丸善と岩波からそれぞれ翻訳が出ているが、高校を卒業したばかりの新1年生に特殊相対論を教え、これを踏まえて電気と磁気を統一的に教えるなど、画期的な内容を数多く含んでいる。
これに照準を合わせて、高校、中学、小学校教育も見直された。米国でどのような見直しがなされたのかは知らないが(その前の教育も良く知らないが)、ほぼ同じ時期に日本でも理系教育の大きな変化が始まった。
西側諸国の同世代の研究者から話を聞くと、どの国でも同じような変化を経験しているようなので、これらは西側諸国が米国主導で結束した教育改革だったと思われる。
数学の水道方式
日本で大きな変化が始まったのは、私の1年上の学年からである。大学のカリキュラムには日米の明らかな連携が感じられた。とくに私の学んだ大学は、バークレーコースやファインマンレクチャーを生み出した大学と姉妹校提携を結んでおり、物理学関連授業の教科書(教授陣の共同執筆による非売品)には両シリーズの影響が色濃く出ていた。
大学への接続に備えて、それまでの中等教育(中学・高校)の課程も、私たちの受けた教育は、すでに旧世代とは大きく変わっていた。変化が最も激しかったのは、数学である。
旧世代では、高校の数学課程は代数と幾何に分かれていた。幾何はユークリッドそのもの(平面幾何学)、代数は方程式や函数である。すでに戦後かなりの年数が経過していたとはいえ、戦前と比較して幾何はもちろん、代数もそれほど変わっていない。戦後になって平面図形の問題を座標系で考える、いわゆる解析幾何学が少し増えているが、扱っている内容としては現在の数Ⅱ程度の範囲であろう。直線と円の方程式など初等レベルだった。微分・積分は導入されていないか、導入されていても多項式までだったと記憶する。
私達の世代が受けた教育課程では、ユークリッド幾何学は、ほぼ全面的に中学課程に降ろされていた。そして高校になると、立体幾何が加えられていた。こちらはユークリッドを基調としているが平面幾何は解析幾何学によって扱われ、どちらも、新しく登場したベクトルの利用が強調されていた。平面幾何の一部はまた、(ガウス平面上での)複素数の応用問題にもなっていた。
そのほかに集合論、高度な関数を含む微分・積分、微分方程式など、高校で扱う数学の内容は一挙に増えている。とくに微積分は、大学の理系学部で初年次前半に教えられる内容が、ほぼ全面的に降ろされていた。
教育課程の改変は大仕事であろう。すべての学年は、途中まで旧課程で学んでいる。これらすべての世代に対して、連続的な学習を保証しなければならない。つまり全ての学年にたいして、少しずつ微調整された異なる学習体系を用意する必要がある。これをやり遂げた文部省と数学教育関係者の手腕は、なかなかと思う。
このように、大学 → 高校 → 中学と、新しい概念が次々に低学年に降ろされてきたが、そのやり方は、数学では「水道方式」と呼ばれ、教育界の新風であった。この流れはその後もしばらく続き、数学に加えて物理でも、それまで大学で教えられていた内容の一部が、高校に降ろされて行った。
教科内容が変われば入試問題も変わる。新課程に合わせた参考書や問題集も少しずつ出まわり始めたが、受験業界はなかなか発想を変えることが出来ない。初期のものは「相変わらず」の印象があった。受験生にとっては手探りの時代であった。