浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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ガラパゴス列島の受験社会Ⅷ

 

小学校において「集合論での落ちこぼれ」が社会問題化していたころ・・・高校教育では、集合論どころではなく、分数の通分が理解できていない生徒が、社会問題になっていた。

 

高校の希望者全入に先駆けていた京都などの公立高校では、これが以前から問題になっていたが、良く調べてみると、これは全国に拡がっていた。

 

 

公立の学級崩壊と私立の躍進

 

拡がったのではなく、隠されていたものが調査によって露見しただけ、との見方もあったが・・・いずれにしろこれは、数をきちんと教えていない小学校の算数教育にその原因がある、との認識を社会に定着させた。これは水道方式にとどめを刺した。

 

学力低下は中学校でも深刻であったが、中学校では学力の問題以前に、教室内での暴力行為が大きく取り上げられていた。生徒が荒れている公立中学が、都市部を中心に、おびただしい数にのぼっていた。

 

学級崩壊などという表現が生まれたのもこの頃である。実はこの時期、私は竜宮城で時の経つのを忘れて過ごしていたので、具体的な実態をよく知らない。

 

が、当時これは「School Violence in Japan 」と、英国の国際ニュースでも報じられるほどであった。また周辺の日本人コミュニティを通じて私の耳にも入っていた。コミュニティの中には、中学校の教員を退職し、転職のため語学留学にやって来た人々が含まれていた。

 

 

学校群の導入以来、東京都内では大学受験のために私立高校に進学する流れ(多くは中学・高校一貫校)が定着しつつあった。これは以前の記事にも書いたが、公立中学校が荒れるにつれて、この流れは首都圏全域に、そして地方の大都市圏にまで広がった。

 

私の中学時代の記憶では、率直に言って私立高校の多くは、公立高校に合格できない生徒を引き受ける役割を主に担っていた。生徒たちがカツアゲや暴力事件、集団万引きなどでしばしば警察のお世話になっている学校も少なくなかった。

 

竜宮城から久しぶりに帰り、教育熱心な多くの友人が、そのような当時の危険校に子弟を通わせていることを知り、私はかなり驚いた。殆どが名門進学校に変身していたのである。

 

 

教育現場はなぜ荒廃したのか(前編)

 

私が帰国した頃、学級崩壊の舞台は、高校に移っていたようだ。移ったのではなく、広がったのかもしれないが。

 

テレビをつけると、高校の学級崩壊をテーマにした映画のコマーシャルが盛んに流されていた。まず目に飛び込んでくるのは、「数学出来んのが、なんで悪いんやー!」と叫び、銃を手にした高校生が教室に乱入するシーンである。

 

もう一つ記憶に残っているシーンでは、生徒が教師の胸ぐらを掴み、「小さい頃からず~と、何も解らん授業を、じっと黙って聞いとるのが、どんなに辛かったか、お前は解ってるのかー!!」と絶叫していた。

 

セリフの詳細は記憶に自信が無いが、この映画が人々の共感を呼んだのなら、学級崩壊の原因は「教育の行き過ぎた高度化」ということになるのだろうか。映画のセリフが、真に実態を反映していたのかはわからないが・・・

 

しかし、「小さい頃からずっと」という言葉は、教育現場の荒廃の過程がもっと複雑なことを示唆しているように思わせた。かなりの数の生徒たちが、教育高度化のずっと以前から、「何も解らん授業」を辛い思いで聞いていたのではないか? School Violence の頻発は、これを可視化させただけなのかもしれない。

 

学ぶ側がどのような心理状態であったのかは、良く考えてみる必要がある。解らなかったのは(少なくとも最初は)結果であり、原因ではなかったはずだ。

 

では原因は・・・?

本当に、教育の高度化であったのか? 

 

分数計算は、内容的にかなり思考レベルが高い。これは慎重に教えなけらばならない。しかし、昔から小学校で教えられていたものなので、とりあえず教育の高度化とは無関係である。集合論を擁護する訳ではないが、そのせいで分数計算が出来なくなった、というのはあまりに短絡的すぎる。

 

自分の体験をあまり一般化してはいけないが、私の場合、高度化以前の旧課程でずっと学んでいたら、やはり高校生になったあたりで、銃を持って教室に乱入したい気分になっていたかもしれない、と思える。

 

私にとっては、旧課程の教育には、そのような閉塞感があった。それを感じ始めたのは・・・考えてみると小さい頃だった気がする。

 

これらの点は、あとでもう一度考えてみたい。

 

 

(続く)