浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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回り道をした人々2

若い人々は、かつてのように、人生を急がなくなったのかもしれない。

 

大学へ入学する人々の年齢が、昔に比べると高くなってきた。

高校を卒業し、社会人を何年か経験してから入学する者、他大学から進路変更して転入してくる者、高校を中退し、大検を経て入学した者・・・

 

雇用が流動化し始めたことや、定年の延長、年金制度の崩壊など、様々な要因から、腰を据えて人生に立ち向かう人々が出始めた感がある。

 

年齢の高い学生は、概して精神年齢も高く、非常に教えやすかった。とくに、社会人の間に勉学資金を蓄えてやってきた人々は、モーティベーションが高い。

そして、予備校などには行かず、独学で入学試験に合格している。大学教育には、むしろ余計な小技を受験勉強で身に付けていない人々の方が、すんなり順応できる。

 

 

N君の話

  

記憶が正しければ、私が教えた中で最も年齢の高かった学部学生は、入学時に42歳だったN君である。

 

彼の仕事は「とび職」であった。私の研究室は、新しい12階建の棟にあったが、「この建物はオレがやったよ」と言っていた。

 

高校の卒業証書は手にしたが、祖父の営む土建業の手伝いばかりで、何も勉強はしておらず、「1/3も出席しなかった」そうである。

 

若い時、家族を持っていたが、妻子と別れ、自由な独り身になってから、ある日古本屋で、最も安い参考書や問題集を買い、自分で勉強を始めた。

 

  「オレの本はどれも、105円だよ、消費税込みで」

 

  「金が無いから一番安い本を買ったんだけど、それが一番良かった。結局。 

   詳しく書いてあるし、問題も難しい。こういうのは、誰も買わないから安い」

 

  「皆が欲しがる薄っぺらい本は、高いだけで、読んでも絶対解らないよ・・・」

 

完全にゼロからのスタートであったので、最初のうちは、勉強していると吐き気がしたという。「男は外で働け」が口癖の祖父に育てられ、子供のころから文字をほとんど読まない生活を送っていた。文章を読むのに時間がかかり、辛かったそうだ。だが、計算は全く辛くない、と言っていた。

 

N君は他学科(電子系)の学生であったが、1年生の教養科目を皮切りに、私が担当する5科目の物理の専門科目をすべて履修した。私の授業内容を完全に理解した学生の一人である。

物理系の基本科目はすべて履修したかったが、自分と同じ年齢のMという教官に妨害された、と言っていた。1科目を履修した後、理不尽な理由でその後の履修登録を拒否された、というのである。どうやら、最初に履修した授業で、説明の間違いをN君が指摘したのが原因のようである。M氏の授業には内容的に問題が多いことを、私も承知していたが、これには少し驚いた。

その授業では、「オレが教えてやった奴らはみんなSかAで、オレだけCだった」ので、試験の採点結果を見せるように要求したところ、文字の書き間違いなど、内容に全く関係ないところで、大きく減点され、「これを間違えるということは、何も解っていないということだ」と言われたそうだ。

 

物理の女子学生から「おじさま」と呼ばれ、彼女たちのレポートを助けていた。ただし私の指示を守り、解答を教えるのでなく、私の与えるヒントの生かし方をアドバイスしてくれていたので、私は大いに助かった。その年は私が在職する最後の年であったが、女子の学力は、在職中の最高を記録した。

 

私はレポート課題に、少数ではあるが、真のアカデミック・マインドを必要とする問題を含めていた。研究者になりたい、という学生がいた場合、まずこれらに独力で挑むことを勧める。N君はヒントなしには無理であったが、彼の計算力は、添削指導を始めてから1年で、私の学生時代と変わらないレベルに達し、問題の意図や目的を完全に理解していた。彼は、研究者向きの人間であった。

 

成績優秀のため、彼は2年次以降、授業料を全額免除されていたが、貯金が底をついたので、卒業後は働くと述べていた。すでに働きながらであり、「卒業研究に入ったら、週2回しか来れないので、その条件で指導してくれる研究室を探している」と言っていた。

「大学院には行かないので、卒研で修士と同じレベルのテーマをやらせてくれるところ」とも付け加えた。私の退職後に卒業研究のファイルを送ってくれたが、確かに修士のレベルであった。

 

 

とび職に戻るのか、と尋ねると「そっちの仕事は、もうやらない」と答えた。

すでに亡くなった祖父の工務店は閉めていた。あちこちの会社に、請け負った工事費を踏み倒され、数千万円以上の被害に遭っていた。

 

訴えるところはないのか、と聞くと、ややいきり立って、

 

  「オレ達は食わなきゃならねえから・・・そんなことやってる時間はないんだ。

   オレ達より大きな会社の、大学出た奴らは、こっちが何も出来ないことが解っ

   てるから、踏み倒すんだよ」

 

そう言ってから、

 

  「まあ、Mみたいな奴が、いっぱい居るっていうことだよ・・・ああ、だから

   オレは、あいつには、別に驚かなかったよ。始めて顔を合わせたときに、

   どういう奴かすぐに分かったから。大学にもいるんだな・・・」

 

  「世の中、そんなことだらけだから、オレはいちいち気にしない。けど、オレ

   みたいな目に遭っている人間は沢山いるから、オレ達の世界では、何も出来

   ない能無しの大卒を見つけると、よってたかって苛めて、潰すんだ・・・

   苛められて追い出されて、もう行く所がなくなる。そこまでやられるよ」

 

・・・と、恐ろしいことを言った。

 

  「浦島先生の授業から逃げる奴らは、世の中のことを知らないから、逃げ

   るんだな。あれじゃ必ず潰されるよ。 ニワトリと同じだからな・・・

   丸覚えで試験受けて、終わって3歩あるいたら、全部忘れてる・・・」

 

 

彼は大学院の修士まで進めば、科学計算を専門とする会社で十分にやって行ける。年齢にとらわれず、これから30年働ける会社もある。就職の世話をしても良い、と水を向けると、「自分は爺さんと同じで、体を使って働く人間なので、机の前に座りっぱなしは性に合わない」と述べた。 

では、勉強は辛かったか、と尋ねると、「物凄く大変だった。大変だったけど、1人でレポートの問題を考えている時、こんな楽しい時間は無かった」と答えた。

 

彼はボイラー士の上級資格を取り、見張っているだけで十分な収入を得られる職に就ける予定だそうである。合格者が殆ど出ない、年に一度の資格試験だが、大学の物理の勉強に比べたら何でもない、と笑っていた。彼は、自分の学科の定期試験は、ほとんど常に満点だったのである。

見張ると言っても、ずっと目を光らせている必要はないので、勤務中に好きな勉強ができる。前からやりたかった生物物理の勉強を始めている、とのことであった。そこで私の授業で学んだ知識が役に立っているそうである。

 

  「オレ一人、食えればいいんだ。老後は必要ない。体が動く間は働いて、

   動けなくなった時に死ぬだけだ」

 

  「オレの親父もそうだったよ。死ぬ直前までマラソンしてた。しょっちゅう

   筋トレやっててさ、末期癌で痛いのを、筋肉痛だと思ってたな・・・」 

 

 

1年次の秋に、「馬鹿馬鹿しいから退学しよう」と思った。だが、授業料を払ってしまったので、最後の学期と思って履修した私の教養単位で、初めてモーティベーションが湧いたそうである。

修練を伴わない「お話し」を教養と見做さない私は、高校の復習を兼ねながら、ある程度体系的な力学の入門を行い、多少の添削指導も行っていた。 

 

N君の言葉には、時々、私もドキリとさせる辛辣さがあったが、彼の生きる覚悟は快かった。「教養の授業とは思えない、重たい授業だった」と言いながら、「はじめて、この大学に入った意味があったと思えた」と言ってくれたことが、嬉しかった。

  

 

N君を「回り道をした人々」に入れたのは、正しくなかった。

彼は、寄り道をしたのである。

そして寄り道で、人生を豊かにすることを知った。