浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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ガラパゴス列島の受験社会Ⅸ

 

このシリーズの第6回の記事で、冷戦時代のスプートニク・ショックが西側諸国の教育近代化を促したと書いた。しかしいまや、軍事的な脅威は、当時の比ではなくなった。

 

ヨーロッパの戦火に比べれば、受験社会の話など、のどかな風景である。どのような形であれ、安心して勉強にいそしめる国はありがたい。平和の回復を祈りつつ、このシリーズを続けよう。

 

 

大学紛争と教育高度化の底流

 

私の属する世代は、教育の変遷を見る上では、やや特異な立ち位置である。

 

上の世代は高度化以前の旧課程で教育を受け、学生時代は学生運動が高まりを見せた時期に一致する。学生運動は、私たちの世代が大学に入学する時点で最高潮に達し、その後は警察力の介入によって急速に終焉を迎えた。それ以降の世代は、新課程で教育を受け、紛争と無関係な学生生活を過ごしている。

 

大学紛争は「よど号ハイジャック事件」や「浅間山荘事件」など、その後も社会的な影響を残した(これについては、私は別の観点から拙文をしたためている)。大学紛争はその他にも、教育に大きな影響を与えたように私は感じている。最近ではこれを指摘する人は少ないが

 

理系教育の高度化が始まった時期と大学紛争の時期の一致は、偶然ではない。両者には底流において、冷戦構造を起点とする繋がりがあった。図式化すると

 

   大学紛争    反戦・反米     冷戦構造   教育高度化

 

という構図になるであろうか。大雑把には左向き矢印が左翼的な方向に、そして右向き矢印が微妙に右翼的な方向に向いていると言える。

 

私は学問と政治的問題は切り離すべきと考えている人間なので、上のような見方は自分としても不本意である。だが、もともと理系教育の高度化は、共産主義国家に対抗して西側が結束した結果だったので、どうしても両者には関連性が出てくる。

 

すでに当時、教育の高度化と産業の高度化が歩調を合わせ、産学共同の流れが始まっていた。これは左翼系の活動家学生が批判するターゲットの一つだった。産業界から大学への資金の流れが、学問の自由を脅かす、と言う主張である。

 

確かに、ベトナム戦争の特需は日本の産業を潤しており、一部の企業がさらに兵器開発へ意欲を見せているとも囁かれていた。つまり、上の図式で「教育の高度化」の右側に、もう一つ右向きの矢印が見え隠れしていたのである。

 

そしてこれとは別に、右向きの流れはもう一つあった。これは日本独特であり、他の国々と異なって、一度は高度化に向かった日本の教育レベルを、逆に引き下げる方向へ作用した。

 

 

東京教育大学の廃校

 

大学紛争を象徴する出来事として、東京大学の入学試験中止は、最も鮮明に人々に記憶されている。このとき同時に、東京教育大学の入学試験も中止されたことを覚えている人々は、今では少ないかもしれない。

 

当時、大学紛争は全国的(というより全世界的)な現象であった。しかし、東京教育大学の紛争は他のケースと異なり、「筑波移転反対闘争」の文脈で語られることが多い。

 

当時、政府は筑波の地に研究・学園都市を作ることを構想し、その中核となる大学を探していた。その時、理学部を中心とした東京教育大学の執行部が、候補として手を挙げた。紛争は、それに対して文学部系の教官がこぞって反対したことに端を発している。

 

筑波の研究・学園都市構想は、朝永振一郎先生のノーベル賞授賞を機に、文部省が検討を始めたと言われている。実際のところは大学側が手を挙げたというより、政府が要請したのであろう。朝永先生は東京教育大の学長であったが、これが具体的な話になったのは、次期学長の代である。

 

これは教育の高度化と抱き合わせの科学技術振興政策を象徴する政策と言えるが、それに対して反対派の文学部は、当時の左翼系知識人や日教組を代表する。この対立に左翼系活動家学生が加わって、紛争は複雑な構図となった。

 

東京教育大学は、最終的には移転ではなく廃校と決まり、新たに筑波大学という新大学が設置された。筑波大学東京教育大学の移転・改名であると信じている人々が多いが、これは(少なくとも書類上は)正しくない。

 

東京教育大の殆どの教員は筑波大学で新規採用され、身分が継続されたが、文学部の教官は採用されず、東京教育大の消滅と共に雇用が打ち切られた。

 

 

統制と教育力の弱体化

 

廃校以前、東京教育大は日本の教員養成の中心的存在と言えた。とくに文学部では、卒業生の半数以上が中等教育の教職(国語・社会・英語)に就いていた。他の学部でも、卒業生は教職に就く率が高かった。そして、文部省にとっては目の上のタンコブであった日教組系の教員を、拡大再生産させる場になっていた。

 

文部省は廃校を機に、日教組の弱体化に本格的に乗り出した。教員に主任制を導入するなど、様々な形で教員人事に関与し、また国旗掲揚君が代斉唱の義務化など、現場においても思想的な統制を強めた。

 

文部省のこのような統制を、私は好ましいとは思わない。しかし思想統制という点では日教組にも同様の体質があり、逆方向の内部的な締め付けを行っていた。

 

ただ公平に見て、私の印象では、日教組系の教員は概ね努力家で、教育者としての適性を備えていたように思われた。これが日本の高い教育水準を支えていた。文部省の統制以降は、学力を含めて、多くの点で資質を欠く教員が増えた印象が強い。これは教育現場の荒廃と無関係とは思えない。

 

何よりも、多くの人々が指摘しているように、文部省の統制によって、授業以外の教員の負担が非常に重くなった。これに学級崩壊が追い打ちをかけ、職場に疲労感・失望感が広がり、退職者が続出した。私が海外で知り合った範囲でも、中学校の教員を退職し、転職のため語学留学にやって来た日本人は大変多かった。

 

 

閉塞の時代

 

それまでの教育高度化の流れも、じわじわと冷え込んだ。そして気が付くと、日本の教育界は、立て直しが効かなくなっていた。

 

私は自分が感じてきた初等・中等教育の閉塞感について、前回の記事に率直な感想を述べた。映画のシーンさながらに銃を持って乱入したい気分・・・と書いたのは乱暴すぎたが、これは旧課程についての私の感想である。

 

新課程になってから、私自身は世界が開けた気分になった。が、帰国してから自分が教える立場となり、次第に当時の閉塞感が戻って来る感覚に襲われた。成績不振者への対応などによって、彼等が入学以前に受けていた学校教育が、旧課程の当時に似通っていると感じ始めたためである。

 

成績不振者に限らず、学問的な見地からすれば見当外れと言わざるを得ない学習を、中学・高校時代に強いられていた学生が、非常に多かった。研究室において私の指導が成功したケースは、正しい学習のやり方を彼らが受け入れ、それが軌道に乗った場合に限られた。その場合、彼らは水を得た魚のように輝きを見せ、成長する。他方、それまでの学校教育の習性から脱却できない場合は、単に混乱を増幅させるだけで、信頼関係を築くことすら難しかった。

 

 

銃を持って高校生が教室に乱入する映画のシーンをテレビで観たとき、ふと、ヘルメットを被り、ゲバ棒を振るって講義室に乱入した活動家学生の記憶が重なった。

 

「数学出来んのが、なんで悪いんや~」という映画のセリフと、「こんな滅茶苦茶な授業に出て、意味が有るか! 学生の事なんか、何も考えてないじゃないか!」と言い放った活動家学生の言葉と・・・

 

考えてみると、私より上の紛争世代は、最後まで旧課程で育っている。彼らはScholl Violence の世代と同じ閉塞感を、心の内に秘めていたのだろうか。これは日本だけに限らず、フランスなどでも同様だったのかもしれない。

 

 

老人の独り言

 

学校教育の閉塞感は、どこから生まれるのだろうか?

 

やはり「授業が解らない」というのが、始まりなのだろう。

 

教師は解らせようとしているのか? そもそも、「解る」とはどういうことかを、教員は心得ているのか?

 

私の場合も、小学生時代に感じた閉塞感は、「解らない」が始まりだった。今振り返ると、内容ではなく意味や目的が解らなかった。私の場合、それは内容そのものが解らないという感覚になる。そして無意味なことを強制されているという感覚が残った。

 

「難しいこと」と「価値のあること」は、決して同じではない。価値が乏しいが難しいというものは、無数に存在す要る。価値が乏しいものには誰も面白さを感じず、難しさはそれに輪をかける。一方で多くの人々は、価値を認めたものに対しては努力することを受け容れる。そして面白さは、難しさと比例するようになる。

 

教員として最も重要な資質は、自分自身が学ぶ姿勢を持っていること、生長欲を持っていることである。教えている内容に自分自身が興味を持ち、内容の価値を生徒と共有できることである。価値を共有せずに理解させることはできない。閉塞感はその無理な試みから生まれる。

 

教師としての資質を、政治思想で判断することはできない。人の道徳観や信念は、時代によって、また個人の成長や経験によって変化する。子供も教師も、その点では同じである。学び、社会で経験を積む中で、人々は考え方を少しずつ変化させる。それによって、社会的な良識の基準も変化して行く。これが時代の流れである。

 

努力を続けた人々の変化こそが、正しい潮流を形成して行く。

 

したがって教育と政治思想は、常に切り離しておかなければいけない。

 

 

(ひとまず終わり)