浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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老人の会話4ーLINE編

帰り道、オトメからLINEメッセージが入った。買い物の依頼である。

 

体調が悪く、夕食を作れない。買い物にも出られないので、そのまま食べられるものを、何か買ってきて欲しい・・・

 

というところまでは、何とか判読した。さらに、それ以外にも、買い物リストが続いていた。

 

  世の中の文字は小さすぎて読めない!

 

全くその通り。私は老眼である。が、遠くは良く見える。もともとは遠視であり、今でも視力は裸眼で1.2を超える。メガネは忘れても大丈夫なように、自宅と仕事場に一つずつ置き、歩行中は持たない。

 

とりあえず歩く方向を変え、マーケットに向かう。真っ先に向かうのは、この時間になると半額に値引きされる寿司の売り場である。最後の2つをゲットし、喜びと共にカートに放り込む。そしてスマホを取り出し、その他の買い物リストを眺めるが・・・

 

やはりどうにも判読できない。

 

やむを得ず、(私に比べれば)比較的若い買い物客の女性に、読み上げてもらうことをお願いした。女性は親切に応じてくれた。

 

   タロー: 全部読んで下さい。

   女性:  全部ですか?

 

最初のところは不要であったが、話を面倒にしてもいけない。とりあえず、全部読みあげることをお願いした。買い物客はすべて女性である。近隣の客が、それとなく聞き耳を立てている。

 

私にとっては、世の中の文字が小さくなっただけでなく、最近は人の声も小さすぎて聞こえにくい。買い物リストに入ったところで、私は雑踏の中で、耳をそばだて、近づけた。

 

   女性:  最後まで読みますか?

   タロー: 最後まで、全部お願いします。

 

リストの後に、なにやら書いてあるのはわかっていた。これも内容を知らなくてはいけない。女性は私の顔をチラと見て、やや躊躇したが、私が聞こえにくそうにしていたので、少し声を大きく、全部を読み上げた。

 

   ・・・それから、何か甘いもの、

 

  あと、バナナとヨーグルト。

 

   とくに甘いもの。

 

   今日こそ、絶対に忘れるなよ。びっくりまーく。

 

   わかったな。びっくりまーく。

 

私は丁重に礼を述べることを忘れなかった。これからは歩行中もメガネを携行することにしよう。

ガラパゴス列島の受験社会Ⅸ

 

このシリーズの第6回の記事で、冷戦時代のスプートニク・ショックが西側諸国の教育近代化を促したと書いた。しかしいまや、軍事的な脅威は、当時の比ではなくなった。

 

ヨーロッパの戦火に比べれば、受験社会の話など、のどかな風景である。どのような形であれ、安心して勉強にいそしめる国はありがたい。平和の回復を祈りつつ、このシリーズを続けよう。

 

 

大学紛争と教育高度化の底流

 

私の属する世代は、教育の変遷を見る上では、やや特異な立ち位置である。

 

上の世代は高度化以前の旧課程で教育を受け、学生時代は学生運動が高まりを見せた時期に一致する。学生運動は、私たちの世代が大学に入学する時点で最高潮に達し、その後は警察力の介入によって急速に終焉を迎えた。それ以降の世代は、新課程で教育を受け、紛争と無関係な学生生活を過ごしている。

 

大学紛争は「よど号ハイジャック事件」や「浅間山荘事件」など、その後も社会的な影響を残した(これについては、私は別の観点から拙文をしたためている)。大学紛争はその他にも、教育に大きな影響を与えたように私は感じている。最近ではこれを指摘する人は少ないが

 

理系教育の高度化が始まった時期と大学紛争の時期の一致は、偶然ではない。両者には底流において、冷戦構造を起点とする繋がりがあった。図式化すると

 

   大学紛争    反戦・反米     冷戦構造   教育高度化

 

という構図になるであろうか。大雑把には左向き矢印が左翼的な方向に、そして右向き矢印が微妙に右翼的な方向に向いていると言える。

 

私は学問と政治的問題は切り離すべきと考えている人間なので、上のような見方は自分としても不本意である。だが、もともと理系教育の高度化は、共産主義国家に対抗して西側が結束した結果だったので、どうしても両者には関連性が出てくる。

 

すでに当時、教育の高度化と産業の高度化が歩調を合わせ、産学共同の流れが始まっていた。これは左翼系の活動家学生が批判するターゲットの一つだった。産業界から大学への資金の流れが、学問の自由を脅かす、と言う主張である。

 

確かに、ベトナム戦争の特需は日本の産業を潤しており、一部の企業がさらに兵器開発へ意欲を見せているとも囁かれていた。つまり、上の図式で「教育の高度化」の右側に、もう一つ右向きの矢印が見え隠れしていたのである。

 

そしてこれとは別に、右向きの流れはもう一つあった。これは日本独特であり、他の国々と異なって、一度は高度化に向かった日本の教育レベルを、逆に引き下げる方向へ作用した。

 

 

東京教育大学の廃校

 

大学紛争を象徴する出来事として、東京大学の入学試験中止は、最も鮮明に人々に記憶されている。このとき同時に、東京教育大学の入学試験も中止されたことを覚えている人々は、今では少ないかもしれない。

 

当時、大学紛争は全国的(というより全世界的)な現象であった。しかし、東京教育大学の紛争は他のケースと異なり、「筑波移転反対闘争」の文脈で語られることが多い。

 

当時、政府は筑波の地に研究・学園都市を作ることを構想し、その中核となる大学を探していた。その時、理学部を中心とした東京教育大学の執行部が、候補として手を挙げた。紛争は、それに対して文学部系の教官がこぞって反対したことに端を発している。

 

筑波の研究・学園都市構想は、朝永振一郎先生のノーベル賞授賞を機に、文部省が検討を始めたと言われている。実際のところは大学側が手を挙げたというより、政府が要請したのであろう。朝永先生は東京教育大の学長であったが、これが具体的な話になったのは、次期学長の代である。

 

これは教育の高度化と抱き合わせの科学技術振興政策を象徴する政策と言えるが、それに対して反対派の文学部は、当時の左翼系知識人や日教組を代表する。この対立に左翼系活動家学生が加わって、紛争は複雑な構図となった。

 

東京教育大学は、最終的には移転ではなく廃校と決まり、新たに筑波大学という新大学が設置された。筑波大学東京教育大学の移転・改名であると信じている人々が多いが、これは(少なくとも書類上は)正しくない。

 

東京教育大の殆どの教員は筑波大学で新規採用され、身分が継続されたが、文学部の教官は採用されず、東京教育大の消滅と共に雇用が打ち切られた。

 

 

統制と教育力の弱体化

 

廃校以前、東京教育大は日本の教員養成の中心的存在と言えた。とくに文学部では、卒業生の半数以上が中等教育の教職(国語・社会・英語)に就いていた。他の学部でも、卒業生は教職に就く率が高かった。そして、文部省にとっては目の上のタンコブであった日教組系の教員を、拡大再生産させる場になっていた。

 

文部省は廃校を機に、日教組の弱体化に本格的に乗り出した。教員に主任制を導入するなど、様々な形で教員人事に関与し、また国旗掲揚君が代斉唱の義務化など、現場においても思想的な統制を強めた。

 

文部省のこのような統制を、私は好ましいとは思わない。しかし思想統制という点では日教組にも同様の体質があり、逆方向の内部的な締め付けを行っていた。

 

ただ公平に見て、私の印象では、日教組系の教員は概ね努力家で、教育者としての適性を備えていたように思われた。これが日本の高い教育水準を支えていた。文部省の統制以降は、学力を含めて、多くの点で資質を欠く教員が増えた印象が強い。これは教育現場の荒廃と無関係とは思えない。

 

何よりも、多くの人々が指摘しているように、文部省の統制によって、授業以外の教員の負担が非常に重くなった。これに学級崩壊が追い打ちをかけ、職場に疲労感・失望感が広がり、退職者が続出した。私が海外で知り合った範囲でも、中学校の教員を退職し、転職のため語学留学にやって来た日本人は大変多かった。

 

 

閉塞の時代

 

それまでの教育高度化の流れも、じわじわと冷え込んだ。そして気が付くと、日本の教育界は、立て直しが効かなくなっていた。

 

私は自分が感じてきた初等・中等教育の閉塞感について、前回の記事に率直な感想を述べた。映画のシーンさながらに銃を持って乱入したい気分・・・と書いたのは乱暴すぎたが、これは旧課程についての私の感想である。

 

新課程になってから、私自身は世界が開けた気分になった。が、帰国してから自分が教える立場となり、次第に当時の閉塞感が戻って来る感覚に襲われた。成績不振者への対応などによって、彼等が入学以前に受けていた学校教育が、旧課程の当時に似通っていると感じ始めたためである。

 

成績不振者に限らず、学問的な見地からすれば見当外れと言わざるを得ない学習を、中学・高校時代に強いられていた学生が、非常に多かった。研究室において私の指導が成功したケースは、正しい学習のやり方を彼らが受け入れ、それが軌道に乗った場合に限られた。その場合、彼らは水を得た魚のように輝きを見せ、成長する。他方、それまでの学校教育の習性から脱却できない場合は、単に混乱を増幅させるだけで、信頼関係を築くことすら難しかった。

 

 

銃を持って高校生が教室に乱入する映画のシーンをテレビで観たとき、ふと、ヘルメットを被り、ゲバ棒を振るって講義室に乱入した活動家学生の記憶が重なった。

 

「数学出来んのが、なんで悪いんや~」という映画のセリフと、「こんな滅茶苦茶な授業に出て、意味が有るか! 学生の事なんか、何も考えてないじゃないか!」と言い放った活動家学生の言葉と・・・

 

考えてみると、私より上の紛争世代は、最後まで旧課程で育っている。彼らはScholl Violence の世代と同じ閉塞感を、心の内に秘めていたのだろうか。これは日本だけに限らず、フランスなどでも同様だったのかもしれない。

 

 

老人の独り言

 

学校教育の閉塞感は、どこから生まれるのだろうか?

 

やはり「授業が解らない」というのが、始まりなのだろう。

 

教師は解らせようとしているのか? そもそも、「解る」とはどういうことかを、教員は心得ているのか?

 

私の場合も、小学生時代に感じた閉塞感は、「解らない」が始まりだった。今振り返ると、内容ではなく意味や目的が解らなかった。私の場合、それは内容そのものが解らないという感覚になる。そして無意味なことを強制されているという感覚が残った。

 

「難しいこと」と「価値のあること」は、決して同じではない。価値が乏しいが難しいというものは、無数に存在す要る。価値が乏しいものには誰も面白さを感じず、難しさはそれに輪をかける。一方で多くの人々は、価値を認めたものに対しては努力することを受け容れる。そして面白さは、難しさと比例するようになる。

 

教員として最も重要な資質は、自分自身が学ぶ姿勢を持っていること、生長欲を持っていることである。教えている内容に自分自身が興味を持ち、内容の価値を生徒と共有できることである。価値を共有せずに理解させることはできない。閉塞感はその無理な試みから生まれる。

 

教師としての資質を、政治思想で判断することはできない。人の道徳観や信念は、時代によって、また個人の成長や経験によって変化する。子供も教師も、その点では同じである。学び、社会で経験を積む中で、人々は考え方を少しずつ変化させる。それによって、社会的な良識の基準も変化して行く。これが時代の流れである。

 

努力を続けた人々の変化こそが、正しい潮流を形成して行く。

 

したがって教育と政治思想は、常に切り離しておかなければいけない。

 

 

(ひとまず終わり)

 

 

 

 

ガラパゴス列島の受験社会Ⅷ

 

小学校において「集合論での落ちこぼれ」が社会問題化していたころ・・・高校教育では、集合論どころではなく、分数の通分が理解できていない生徒が、社会問題になっていた。

 

高校の希望者全入に先駆けていた京都などの公立高校では、これが以前から問題になっていたが、良く調べてみると、これは全国に拡がっていた。

 

 

公立の学級崩壊と私立の躍進

 

拡がったのではなく、隠されていたものが調査によって露見しただけ、との見方もあったが・・・いずれにしろこれは、数をきちんと教えていない小学校の算数教育にその原因がある、との認識を社会に定着させた。これは水道方式にとどめを刺した。

 

学力低下は中学校でも深刻であったが、中学校では学力の問題以前に、教室内での暴力行為が大きく取り上げられていた。生徒が荒れている公立中学が、都市部を中心に、おびただしい数にのぼっていた。

 

学級崩壊などという表現が生まれたのもこの頃である。実はこの時期、私は竜宮城で時の経つのを忘れて過ごしていたので、具体的な実態をよく知らない。

 

が、当時これは「School Violence in Japan 」と、英国の国際ニュースでも報じられるほどであった。また周辺の日本人コミュニティを通じて私の耳にも入っていた。コミュニティの中には、中学校の教員を退職し、転職のため語学留学にやって来た人々が含まれていた。

 

 

学校群の導入以来、東京都内では大学受験のために私立高校に進学する流れ(多くは中学・高校一貫校)が定着しつつあった。これは以前の記事にも書いたが、公立中学校が荒れるにつれて、この流れは首都圏全域に、そして地方の大都市圏にまで広がった。

 

私の中学時代の記憶では、率直に言って私立高校の多くは、公立高校に合格できない生徒を引き受ける役割を主に担っていた。生徒たちがカツアゲや暴力事件、集団万引きなどでしばしば警察のお世話になっている学校も少なくなかった。

 

竜宮城から久しぶりに帰り、教育熱心な多くの友人が、そのような当時の危険校に子弟を通わせていることを知り、私はかなり驚いた。殆どが名門進学校に変身していたのである。

 

 

教育現場はなぜ荒廃したのか(前編)

 

私が帰国した頃、学級崩壊の舞台は、高校に移っていたようだ。移ったのではなく、広がったのかもしれないが。

 

テレビをつけると、高校の学級崩壊をテーマにした映画のコマーシャルが盛んに流されていた。まず目に飛び込んでくるのは、「数学出来んのが、なんで悪いんやー!」と叫び、銃を手にした高校生が教室に乱入するシーンである。

 

もう一つ記憶に残っているシーンでは、生徒が教師の胸ぐらを掴み、「小さい頃からず~と、何も解らん授業を、じっと黙って聞いとるのが、どんなに辛かったか、お前は解ってるのかー!!」と絶叫していた。

 

セリフの詳細は記憶に自信が無いが、この映画が人々の共感を呼んだのなら、学級崩壊の原因は「教育の行き過ぎた高度化」ということになるのだろうか。映画のセリフが、真に実態を反映していたのかはわからないが・・・

 

しかし、「小さい頃からずっと」という言葉は、教育現場の荒廃の過程がもっと複雑なことを示唆しているように思わせた。かなりの数の生徒たちが、教育高度化のずっと以前から、「何も解らん授業」を辛い思いで聞いていたのではないか? School Violence の頻発は、これを可視化させただけなのかもしれない。

 

学ぶ側がどのような心理状態であったのかは、良く考えてみる必要がある。解らなかったのは(少なくとも最初は)結果であり、原因ではなかったはずだ。

 

では原因は・・・?

本当に、教育の高度化であったのか? 

 

分数計算は、内容的にかなり思考レベルが高い。これは慎重に教えなけらばならない。しかし、昔から小学校で教えられていたものなので、とりあえず教育の高度化とは無関係である。集合論を擁護する訳ではないが、そのせいで分数計算が出来なくなった、というのはあまりに短絡的すぎる。

 

自分の体験をあまり一般化してはいけないが、私の場合、高度化以前の旧課程でずっと学んでいたら、やはり高校生になったあたりで、銃を持って教室に乱入したい気分になっていたかもしれない、と思える。

 

私にとっては、旧課程の教育には、そのような閉塞感があった。それを感じ始めたのは・・・考えてみると小さい頃だった気がする。

 

これらの点は、あとでもう一度考えてみたい。

 

 

(続く)

ガラパゴス列島の受験社会 Ⅶ

 

前回の記事で述べた水道方式がどの程度、政府レベルの政策として、米国と密接に連携していたのかは知らない。

 

しかしこの教育改革は、日本独自の取り組みとは到底考えられないほど、思い切った変革であった。直接にしろ間接にしろ、相当の外圧が無ければ、ここまではしなかったと思われる。日本の科学教育は、これによって一気に近代化した。

 

 

黄金時代

 

大学の物理教育で基本となったバークレーコースやファインマン・レクチャーは、概念の導入に最新の注意が払われ、誰もが段階的に必ず理解できるように書かれている。生き生きとした記述であり、図解も様々に工夫され、「絶対に誰にでも解らせる」という著者たちの使命感と意気込みが伝わる大作である。

 

この教育改革は、米国の科学水準・教育水準を、量的にも質的にも飛躍的に成長させたはずだ。これを計画し、着実に実行した当時の米国は、実に偉大な国であったと感嘆する。

 

2万人の科学者・技術者を動員してアポロ計画を推し進め、予定より早く人類を月に送り込むことに成功した。ここで生まれた新技術は様々に民生転用され、西側諸国全体の教育改革と相俟って、その後数十年にわたる目覚ましい技術革新の時代を呼び込んだ。そして東側諸国は疲弊し、相次いで体制の崩壊に追い込まれた。

 

対外的には、安全保障としてデタントを進める。一方で国内では、科学技術を振興をする。そのためにまず教育の振興から・・・と大きく構え、最終的には軍事的な戦略を越えて、文化力で全体主義国家をねじ伏せたのである。

 

 

日本ではこれを機に、受験生の勉強が変わって来た。受験参考書の類は、一時的な空白期を過ぎると、新しい(または無名だった)多くの出版社から、続々と良いものが出版されるようになった。

 

個人の感想ではあるが、私の兄姉たちも使っていたかつての「売れ筋」の参考書は、覚え込む以外に使い道が無く、閉塞感に満ちていた。一連の教育改革は、高校の理系科目を魅力的に変貌させ、科学技術に人々を惹き付けた。

 

新課程になってからは、参考書類も体系的なスタイルできちんと書かれたものが人気を博し、学術的な雰囲気が前面に出るようになった。大学教授がこれらを執筆し、問題集の編集などを行う場合も増えた。作業の主体はアルバイトの院生だったと思われるが、これは人々の意識を変え始めた。

 

個人的な感想としては、この時期が、日本の理系教育の黄金時代だったと思える。そして教育改革は、日本の産業の高度化に大きく貢献した。この時代に教育を受けた世代は、基礎学力がしっかりしており、対応力が高い。日本の科学技術は世界の称賛を集めるようになり、もはや「物真似」と評する人々はいなくなった。

 

 

躓いた水道方式

 

水道方式の推進者は、高度な概念を次々に低学年に降ろしたが、最後に総仕上げとして、小学校に集合論を導入し、子供たちに早くから近代数学の概念に馴染ませることを目論んだ。

 

ここで彼らは、大きく躓いた。

 

何をやっているのか分からない生徒が続出したのである。

 

それまで小学校の算数は、数量的な能力や感覚を養うことを目的とした、具体的な「数」を基礎とする教科だった。

 

そこへ、数とは無関係な抽象的な概念が、初めて算数教育の現場に持ち込まれた。

 

買い物など、日常生活でも遭遇する加減乗除の世界とは、全く無縁である。学ぶ必然性のない内容であり、多くの子供たちは、そもそも「何の話か」理解できなかった。人間、解らない時は、どうやっているかではなく、何をやっているか解らないのである。その典型的な例であった。

 

子供たちだけではない。現場の教師にとってすら、集合は概念として全く新しく、自分たちが学んでこなかった内容である。まず教える側が、その意味や目的を理解できていなかった。

 

 

黄昏の時代へ

 

水道方式の推進者は、当時の数学教育のカリスマであり、啓蒙的な文筆活動で知られていた。

 

私は著名人であったこの人の著作を、高校生の時に途中まで読んだことがあるが、その時、やや怖くなったのを覚えている。論理的には完璧に持論を展開するが、普通の人々の感覚から離れ、現実的でない方向と感じられた。すでに小学校での集合論の構想が頭の中にあり、着々とその方向へ進んでいた。

 

その結果はすでに書いたとおりである。学校教育について行けない子供たちに対して「落ちこぼれ」という言葉が盛んに使われるようになったのは、この頃からであった。

 

彼は失敗の原因を理解せず、落ちこぼれではなく「落ちこぼし」であると様々な機会で反論し、教育する側に責があるとした。が、弘中平祐氏等の著名な数学者も集合論の導入を支持せず、現場の大きな混乱と強い社会批判の中で、文部省は撤退を余儀なくされた。

 

現実的でない方向、と書いたが、人間の頭は何から何まで論理で動く訳ではない。様々な体験を積み重ねて感覚で捉える力が育ち、他者と目的意識を共有して、はじめて論理が有効に機能する。

 

小学校に導入された集合論の内容は、高校生程度の年齢に達してから、必要な文脈において学べば、全く平易で自明なものばかりであった。しかし子供にとっては余りに唐突である。何の必然性もなく、「仲間あつめ」などと目的も不明な文脈で語られては、人間の脳は受け付けない。

 

教育とは連係プレーであり、一つの科目だけで閉じるものではない。一部だけ高度化させても、全体としては機能しない。米国のようなグランドデザインが必要で、水道方式は教育全体としてのビジョンを欠いていた。

 

一世を風靡した水道方式であったが・・・集合論の躓きが潮目を変えた。教育の高度化はその後もしばらく続いたが、ぎくしゃくした試行錯誤が続き、新入生の予備知識が頻繁に変わることで、大学の教育現場にも混乱が飛び火した。そして教育の高度化そのものが、やがてリセッションに向かい始めた。

 

 

潮流

 

集合論の失敗が無ければ、教育高度化は順調に継続されたであろうか?

 

ヨーロッパの場合、私の見知った範囲では、初等教育ではなく中等教育集合論を教え、経済学など文系分野も含めて、教育の近代化にかなり成功している。いきなり小学校に持ち込んだ水道方式の拙速を、私は残念に思う。

 

しかし多くの教育者や文科省は、集合論はきっかけに過ぎなかったと考えているであろう。高校進学率が9割に近づきつつあった中で、とくに高校の教育現場が理系教育の高度化に息切れし始めていたのは確かである。いずれにしろ学級崩壊の対策として、政府は理系科目の高度化政策を見直さざるを得なくなった。

 

そして息切れした高校の教育現場は、大学入試における共通一次試験の比重が大きくなるにつれ、マークシート方式に特化した「その場しのぎ」の試験対策に走って行った。これにより、高校生の勉強スタイルは再び変化し始め、本質的な理解はなおざりにされた。私の印象では、教育改革前の閉塞感の時代に戻った感がある。

 

黄金時代は永遠に去った。

 

私を含め、多くの理系の大学人は、教育現場のマークシート対策が学力低下の原因と考えているが、今となっては、どちらが原因でどちらが結果なのかすら、判然としない。次回は、このあたりの事情を少し詳しく見て行きたい。

 

(続く)

ガラパゴス列島の受験社会Ⅵ

 

前回から続く

 

このシリーズの第3回第4回の記事で、都立高校の学校群制度や大学の共通一次試験の導入について書いてきたが、これらはやがて日本人の学習を変えてしまうほど、影響の大きいものだった。

 

どのような影響があったかについては、いずれ詳しく書きたいが、これから暫くの間は時計の針を巻き戻し、まずそれ以前の日本で、初等・中等教育がどのように変遷してきたかを見て行こう。例によって、理系教育が中心になるが・・・

 

ちなみに私の育った家には、大正生まれの父が戦前の旧制高校時代に使った参考書類が、物置に大量に眠っていた。これに加えて、私の10年上、5年上の兄姉たちが使用した参考書も数多く散在していた。私は中学時代からこれらに目を通しており、私の観察にはそれが加味されている。

 

もちろんそれに加えて、私自身が受けた教育があり、また在職中の入試問題作成や大学カリキュラムの構築などの経験を踏まえている。

 

ただ私は浦島太郎であり、海外滞在中の期間が抜け落ちている。そこは伝聞や推測で補いつつ、できるだけ連続的な解析接続を試みるが、その間に進行した変化が日本の理系教育の劣化に最も深刻だった気もしている。

 

 

スプートニク・ショックと教育高度化の波

 

私の小学生時代、世界は東西冷戦の真っ只中にあった。

 

そこで2つの大きな事件があった。一つは、米ソ核戦争の一歩手前と言われ、世界が固唾を呑んだキューバ危機、そしてもう一つはその1年前、「地球は青かった」の言葉で知られるガガーリンの、人類初の有人宇宙飛行である。

 

実は当時のソ連は、ガガーリンの有人飛行に先駆ける数年前に、すでに人類初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功していた。西側諸国に最も強烈なショックを与えたのはむしろこちらであり、上に述べた2つの大事件は、その上塗りであった。

 

米ソの宇宙開発競争は軍拡競争と表裏一体である。スプートニクの打ち上げ成功は、科学技術レベルにおいて、共産国自由主義陣営を凌駕していることが明白になった瞬間であった。

 

アメリカ議会はこれを深刻に受け止め、大統領自身が「自分たちは遅れている」と明言し、その後 J.F.ケネディ大統領はアポロ計画を立ち上げ、月面着陸においてソ連に先んじることを公約に掲げた。

 

この計画を実現すべく、米政府は有力な大学の科学者に協力を要請してプロジェクトを組み、まず自然科学教育の高度化を目指す抜本的な改革に着手した。

 

ここで次々に生まれたのが、有名な「バークレー物理学コース」や「ファインマン・レクチャー」などの、優れた教科書シリーズである。この2つのシリーズは丸善と岩波からそれぞれ翻訳が出ているが、高校を卒業したばかりの新1年生に特殊相対論を教え、これを踏まえて電気と磁気を統一的に教えるなど、画期的な内容を数多く含んでいる。

 

これに照準を合わせて、高校、中学、小学校教育も見直された。米国でどのような見直しがなされたのかは知らないが(その前の教育も良く知らないが)、ほぼ同じ時期に日本でも理系教育の大きな変化が始まった。

 

西側諸国の同世代の研究者から話を聞くと、どの国でも同じような変化を経験しているようなので、これらは西側諸国が米国主導で結束した教育改革だったと思われる。

 

 

数学の水道方式

 

日本で大きな変化が始まったのは、私の1年上の学年からである。大学のカリキュラムには日米の明らかな連携が感じられた。とくに私の学んだ大学は、バークレーコースやファインマンレクチャーを生み出した大学と姉妹校提携を結んでおり、物理学関連授業の教科書(教授陣の共同執筆による非売品)には両シリーズの影響が色濃く出ていた。

 

大学への接続に備えて、それまでの中等教育(中学・高校)の課程も、私たちの受けた教育は、すでに旧世代とは大きく変わっていた。変化が最も激しかったのは、数学である。

 

旧世代では、高校の数学課程は代数と幾何に分かれていた。幾何はユークリッドそのもの(平面幾何学)、代数は方程式や函数である。すでに戦後かなりの年数が経過していたとはいえ、戦前と比較して幾何はもちろん、代数もそれほど変わっていない。戦後になって平面図形の問題を座標系で考える、いわゆる解析幾何学が少し増えているが、扱っている内容としては現在の数Ⅱ程度の範囲であろう。直線と円の方程式など初等レベルだった。微分積分は導入されていないか、導入されていても多項式までだったと記憶する。

 

私達の世代が受けた教育課程では、ユークリッド幾何学は、ほぼ全面的に中学課程に降ろされていた。そして高校になると、立体幾何が加えられていた。こちらはユークリッドを基調としているが平面幾何は解析幾何学によって扱われ、どちらも、新しく登場したベクトルの利用が強調されていた。平面幾何の一部はまた、(ガウス平面上での)複素数の応用問題にもなっていた。

 

そのほかに集合論、高度な関数を含む微分積分微分方程式など、高校で扱う数学の内容は一挙に増えている。とくに微積分は、大学の理系学部で初年次前半に教えられる内容が、ほぼ全面的に降ろされていた。

 

 

教育課程の改変は大仕事であろう。すべての学年は、途中まで旧課程で学んでいる。これらすべての世代に対して、連続的な学習を保証しなければならない。つまり全ての学年にたいして、少しずつ微調整された異なる学習体系を用意する必要がある。これをやり遂げた文部省と数学教育関係者の手腕は、なかなかと思う。

 

このように、大学 → 高校 → 中学と、新しい概念が次々に低学年に降ろされてきたが、そのやり方は、数学では「水道方式」と呼ばれ、教育界の新風であった。この流れはその後もしばらく続き、数学に加えて物理でも、それまで大学で教えられていた内容の一部が、高校に降ろされて行った。

 

教科内容が変われば入試問題も変わる。新課程に合わせた参考書や問題集も少しずつ出まわり始めたが、受験業界はなかなか発想を変えることが出来ない。初期のものは「相変わらず」の印象があった。受験生にとっては手探りの時代であった。

 

(続く)

 

 

 

ガラパゴス列島の受験社会 Ⅴ

前回の記事では、東京都の学校群制度、大学の共通一次試験、中学受験の過熱・・・という一連の流れを回想し、経済格差が教育格差を生む社会になりつつあると書いた。

 

この観察は現在、多くの人々が共有しているように思う。

 

しかし、なぜこれが始まったのかは、誰も論じていない。前回の記事で述べた「文部省の思惑」という説は大学内にあったが、それはそれとして、何らかの社会的な背景は考えられないだろうか?

 

以下は、例によって私の記憶から派生した勝手な妄想であるが・・・

 

 

平等化を目指した学校群制度

 

学校群制度の推進派が、どのような人々で構成されていたのか、私は具体的には知らない。新聞などで報道されていた範囲では、推進派は教育の機会均等を主張して、公立の教育機関に特定の進学校が存在することを不平等と断じていた。

 

これは大変不思議な論理であり、私は当時から違和感を感じていた。「誰でも大学に入れろ」という主張なら、是非はともかく話は分かるが、「進学校の存在を禁じろ」というのは、教育の機会均等とは逆の方向としか思えない。 機会を与えないことで平等を実現しよう という貧乏平等主義である。

 

事実まだ貧しい時代だったためか、当時の教育問題の論客は、殆どがその方向の平等論者だった。さらに言えば、進学のための学習は、学習本来の姿から逸脱し、不適切であると断ずる人々が多かった(以前に別の記事で紹介している)。これが推進派の人々に共有されている基本的な考えだったように思われる。

 

その考えは、人々の進学の目的が学歴の取得にあり、特権的利益の追求に他ならないという確信から生まれていたように見えた。一部の人々の批判は、ややヘイト・スピーチに近く、「誰でも同じ条件にすることが機会の均等である」という論理を振りかざし、機会を平等に奪うことに執着していた。

 

念頭にあったのが教育ではなく、特権的利益だったからであろう。前者は与えるのが望ましいが、後者は奪うのが望ましい。

 

 

文部省のスタンス 

 

学校群の導入の議論は、高校での進学教育の是非の議論であったので、そこでは当然ながら、大学入試の在り方にも話が及んだはずである。

 

学校群推進派は、同様の平等政策を、高校だけではなく大学にも望んだのではないか。私は、これが文部省に巧みに利用され、共通一次導入への流れが作られたと想像している。

 

 

しかし、文部省の共通一次政策が東京都の学校群制度と連関していたかはともかくとして、文部省の思惑は、平等主義者とは異なっていたはずである。

 

高等教育を受けた人材の供給停止に繋がるような政策を実行すれば、社会は(少なくとも先進国としては)持続できない。役人であるから、そのような考えは持たないであろう。また文部省自身の権威も守る必要があり、彼等は学歴による序列や特権を否定する立場にはない。

 

 

が、国立大学内で囁かれていたように、社会で相互承認されていた大学間の序列を文部省が変更したい・・・と考えていた可能性はある。その企ては(少なくとも当時の時点では)成功しなかったが。

 

神話という虚構の相互承認によって社会が保たれる、という「サピエンス全史」の視点からすれば、すでに相互承認されている価値を変更する試みは、社会への挑戦である。ハラリ氏は「大多数の人々の価値観を一斉に消滅させ、別の価値観に置き換えなければならない」と述べているが、これは官僚の権限をもってしても、困難な事業である。

 

結局、天然ダイヤの場合と同様に、人々は従来からの大学の序列を重んじ、その相互承認を継続した。

 

 

老人の独り言

 

「公立の教育機関で進学教育を行ってはならない」との平等派の主張に、「公立の」という文言が入っていたかどうかは、実のところ記憶していない。誰でも同じ条件に揃えることが機会の均等という理屈なら、入れてはいけないが・・・

 

入れてはいけないと言っても、これは実質的に入ってくる。学費を自費で賄い、進学教育を受けることは妨げられない。制度的な方法で進学教育の機会を奪うことが出来るのは、公立学校に限られる。したがって、低所得者のみが高等教育から遠ざけられ、不平等がさらに拡大するのは、自明の理と言える。

 

たとえ私学を含めて進学教育を禁じても、人々は私塾へ向かう。韓国ではかつて政府が学習塾を禁じたが、塾は地下へ潜って法律は機能せず、政府はこの法令を廃止した。

 

あくまでも平等を追求するなら、高等教育そのものを禁ずるしかないが・・・これも富裕層は海外で受けることができる。社会は相変わらず、そのような人々を求めるであろう。自国の通貨が価値を失えば、外国の通貨が裏で流通するのと同じである。

 

 

当時の時代背景は理解できるが、それを考慮しても、「進学の目的は学歴に付随する特権的利益の追求である」と決めつける発想は、余りにも貧し過ぎた。仮にその判断が概ね正しかったとしても、一部の進学ルートを閉鎖すれば平等が生まれる訳ではない。すべてのルートを完全に閉鎖してしまえば、ある種の平等が達成されるかもしれないが、高等教育を失った社会は、そもそも分配すべき富を生み出すことが出来ない。

 

金(かね)の亡者を嫌悪しても、貨幣の価値を互いに承認せざるを得ないことに似ている。「世の中から金を無くせ!」という主張が通れば、庶民も勤労による収入で家族を支えることができなくなり、社会は崩壊する。

 

虚構の相互承認が文明社会の大前提であるならば、承認の範囲が本来の価値を超えて拡大しないように戒めなければならない。学歴の場合は、しばしばその傾向が強いようにも感じられる。学校群制度の背後にあったのは、それに対する反発であり、社会制度に発展しつつあったその相互承認を止めたかったのであろう。

 

しかし、不当な拡大の原因は、人々の心の中にある。

 

一時的な評価に過ぎない学歴に過敏に反応し、学習行為まで嫌悪するとき、拡大はすでに始まっている。

 

 

(続く)

 

 

ガラパゴス列島の受験社会Ⅳ

 

前回の記事 では、大学共通一次試験の導入と国立大学の授業料値上げについて書いたが・・・

 

 

東京都の学校群制度

 

これに先立つこと数年、受験生を送り出す高校側でも、入試が大きく様変わりした。東京都で学校群制度が導入され、都立高校を受験する生徒は、地域ごとに数校を一つのグループに括った「学校群」を受験することになった。つまり、志望する高校を、個別に選択できないようにした制度である。

 

学校群制度は、公教育に特定の進学校を作らないという「平等な公教育」の政策として導入された。

 

形としては東京都独自の取り組みであったが、導入の経緯は混沌としていて、色々な報道にもかかわらず、誰が仕掛けたものか良く分からない。保守系知事の時代に始まったが、その後の長期革新政権でも堅固に継承された。この制度により、都内に相当数存在していた公立の「名門進学校」は、進学率の低い高校と抱き合わせになり、進学校としての地位をほぼ失った。

 

似たような政策は、「15の春を泣かせるな」の掛け声とともに、高校全入を目指す政策として、すでに幾つかの革新系知事の自治体で推進されていたように記憶する。その結果、京都などいくつかの自治体で、分数の加減乗除が理解できていない高校生が相当数に達するなど、深刻な学力低下がもたらされた。

 

これが社会問題化し始めたため、高校全入の動きは大きくは広がらなかったが、それでも今では全国的に、公立高校への進学は(理数科などを除き)基本的に居住地域に限定されている。そして高校の学力レベルはやや平均化され、入学はかつてより容易になっている。

 

 

共通一次政策との類似点

 

学校群制度は、形の上では東京という一自治体の政策であるが、国の政策である共通一次試験と高い共通性がある。私は学校群制度導入の背後には、文部省の誘導があったのではないかと考えている。

 

大学入試に共通一次を導入した文部省の当初の目論見は、全ての国立大学の入試を一本化することであった。文部省は、高校の学校群とセットの政策として「国立大学群」を目指していたのではないか?

 

文部省はこの段階では、授業料を値上げする意図は無かったのかもしれない。描いていたプランはむしろ、国立大学を低料金の大衆大学と位置付け、高校格差・大学格差の無い「平等な公教育」を達成し、入試地獄を解消したヒーローとなる。

 

そして、個別入試で選抜する私立大学はブランド化される・・・

 

 

格差社会への序章

 

学校群制度の推進者は、公教育に進学校が存在することを不平等と断じ、庶民を含めて誰でも利用できた有力大学へのルートを封鎖した。これは与えないことで均等化を図る貧乏平等主義の発想であり、このような「他人の脚を引っ張る」政策は、得てして平等とは正反対の方向へ向かわせる。

 

一つのルートが塞がれれば、人は別のルートを探し出す。首都圏では、富裕層の子弟は私立の進学校に進学する道を選んだ。

 

私立の高校は急成長し、10年後には、かつて底辺校と呼ばれていた私立高校の多くが名門進学校に変身した。とくに中高一貫教育の私立校は人気が高まり、中学で受験する子供たちを教える学習塾が膨大な数に膨れ上がった。

 

人々が進学校を選ぶ主要な目的は、相変わらず、一部の国立大への橋渡しである。単に公立の進学校が私立の進学校に入れ替わっただけであり、唯一の違いは、学費が高額になったことであった。そして入試地獄は解消されるのではなく、低年齢層にまで降りてくる結果となった。

 

公立高校全盛時代の学習塾は、健全な学習を妨げるものとして、学校と陰に陽に対立関係にあり、社会的にも非難を浴びる日陰の存在であった。しかし公立中高の教育力の弱体化が歴然となるにつれて、公立学校の生徒も次第に学習塾に頼るようになり、社会の批判は薄れて行った。

 

そして機が熟したと見たか、当時の中曽根首相は、ある日突然、報道陣を引き連れて都内の有名進学塾を視察訪問し、「高度な人材を育てる拠点」と持ち上げて、人々を驚かせた。これを契機に、学習塾は日陰の存在から表舞台に顔を出すようになり、やがて諮問委員会のメンバーとして、教育行政にまで口を出す存在となった。

 

 

私立大学、私立中高、学習塾・・・という一連の変化の流れは、高等教育に至る教育費を庶民の手の届かないレベルにまで高騰させ、経済格差がそのまま教育格差に直結する英国型の社会構造に日本を近づけている。

 

その転換を方向づけた要因の一つは皮肉にも、日本の教育界や社会の一部に根強い平等主義であり、私はこれが巧みに利用されたのではないかと感じている。これについて、次回にもう少し詳しく考えてみたい。

 

(続く)