浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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ガラパゴス列島の受験社会 Ⅴ

前回の記事では、東京都の学校群制度、大学の共通一次試験、中学受験の過熱・・・という一連の流れを回想し、経済格差が教育格差を生む社会になりつつあると書いた。

 

この観察は現在、多くの人々が共有しているように思う。

 

しかし、なぜこれが始まったのかは、誰も論じていない。前回の記事で述べた「文部省の思惑」という説は大学内にあったが、それはそれとして、何らかの社会的な背景は考えられないだろうか?

 

以下は、例によって私の記憶から派生した勝手な妄想であるが・・・

 

 

平等化を目指した学校群制度

 

学校群制度の推進派が、どのような人々で構成されていたのか、私は具体的には知らない。新聞などで報道されていた範囲では、推進派は教育の機会均等を主張して、公立の教育機関に特定の進学校が存在することを不平等と断じていた。

 

これは大変不思議な論理であり、私は当時から違和感を感じていた。「誰でも大学に入れろ」という主張なら、是非はともかく話は分かるが、「進学校の存在を禁じろ」というのは、教育の機会均等とは逆の方向としか思えない。 機会を与えないことで平等を実現しよう という貧乏平等主義である。

 

事実まだ貧しい時代だったためか、当時の教育問題の論客は、殆どがその方向の平等論者だった。さらに言えば、進学のための学習は、学習本来の姿から逸脱し、不適切であると断ずる人々が多かった(以前に別の記事で紹介している)。これが推進派の人々に共有されている基本的な考えだったように思われる。

 

その考えは、人々の進学の目的が学歴の取得にあり、特権的利益の追求に他ならないという確信から生まれていたように見えた。一部の人々の批判は、ややヘイト・スピーチに近く、「誰でも同じ条件にすることが機会の均等である」という論理を振りかざし、機会を平等に奪うことに執着していた。

 

念頭にあったのが教育ではなく、特権的利益だったからであろう。前者は与えるのが望ましいが、後者は奪うのが望ましい。

 

 

文部省のスタンス 

 

学校群の導入の議論は、高校での進学教育の是非の議論であったので、そこでは当然ながら、大学入試の在り方にも話が及んだはずである。

 

学校群推進派は、同様の平等政策を、高校だけではなく大学にも望んだのではないか。私は、これが文部省に巧みに利用され、共通一次導入への流れが作られたと想像している。

 

 

しかし、文部省の共通一次政策が東京都の学校群制度と連関していたかはともかくとして、文部省の思惑は、平等主義者とは異なっていたはずである。

 

高等教育を受けた人材の供給停止に繋がるような政策を実行すれば、社会は(少なくとも先進国としては)持続できない。役人であるから、そのような考えは持たないであろう。また文部省自身の権威も守る必要があり、彼等は学歴による序列や特権を否定する立場にはない。

 

 

が、国立大学内で囁かれていたように、社会で相互承認されていた大学間の序列を文部省が変更したい・・・と考えていた可能性はある。その企ては(少なくとも当時の時点では)成功しなかったが。

 

神話という虚構の相互承認によって社会が保たれる、という「サピエンス全史」の視点からすれば、すでに相互承認されている価値を変更する試みは、社会への挑戦である。ハラリ氏は「大多数の人々の価値観を一斉に消滅させ、別の価値観に置き換えなければならない」と述べているが、これは官僚の権限をもってしても、困難な事業である。

 

結局、天然ダイヤの場合と同様に、人々は従来からの大学の序列を重んじ、その相互承認を継続した。

 

 

老人の独り言

 

「公立の教育機関で進学教育を行ってはならない」との平等派の主張に、「公立の」という文言が入っていたかどうかは、実のところ記憶していない。誰でも同じ条件に揃えることが機会の均等という理屈なら、入れてはいけないが・・・

 

入れてはいけないと言っても、これは実質的に入ってくる。学費を自費で賄い、進学教育を受けることは妨げられない。制度的な方法で進学教育の機会を奪うことが出来るのは、公立学校に限られる。したがって、低所得者のみが高等教育から遠ざけられ、不平等がさらに拡大するのは、自明の理と言える。

 

たとえ私学を含めて進学教育を禁じても、人々は私塾へ向かう。韓国ではかつて政府が学習塾を禁じたが、塾は地下へ潜って法律は機能せず、政府はこの法令を廃止した。

 

あくまでも平等を追求するなら、高等教育そのものを禁ずるしかないが・・・これも富裕層は海外で受けることができる。社会は相変わらず、そのような人々を求めるであろう。自国の通貨が価値を失えば、外国の通貨が裏で流通するのと同じである。

 

 

当時の時代背景は理解できるが、それを考慮しても、「進学の目的は学歴に付随する特権的利益の追求である」と決めつける発想は、余りにも貧し過ぎた。仮にその判断が概ね正しかったとしても、一部の進学ルートを閉鎖すれば平等が生まれる訳ではない。すべてのルートを完全に閉鎖してしまえば、ある種の平等が達成されるかもしれないが、高等教育を失った社会は、そもそも分配すべき富を生み出すことが出来ない。

 

金(かね)の亡者を嫌悪しても、貨幣の価値を互いに承認せざるを得ないことに似ている。「世の中から金を無くせ!」という主張が通れば、庶民も勤労による収入で家族を支えることができなくなり、社会は崩壊する。

 

虚構の相互承認が文明社会の大前提であるならば、承認の範囲が本来の価値を超えて拡大しないように戒めなければならない。学歴の場合は、しばしばその傾向が強いようにも感じられる。学校群制度の背後にあったのは、それに対する反発であり、社会制度に発展しつつあったその相互承認を止めたかったのであろう。

 

しかし、不当な拡大の原因は、人々の心の中にある。

 

一時的な評価に過ぎない学歴に過敏に反応し、学習行為まで嫌悪するとき、拡大はすでに始まっている。

 

 

(続く)