浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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戦後教育の変遷3 - その後も続く教養教育

 前回の記事から続く

 

 

今でも続く大学の教養教育 

 

GHQが大学の数を増やしたのは、文教予算の比率をできるだけ増やし、軍事費に回す余裕を与えないことが目的だったとも言われている。

 

ただ公平に見て、様々な憶測が囁かれる中で、GHQの政策には一定の理念もあったように私は感じている。

実際に、米国は国民教育の普及に熱心な国である。最近日本でもしきりに叫ばれるようになった生涯教育の考え方や、副専攻など多方面の「教養」を重視する考え方も、米国が源流である。

 

米国のドラマを観ていると、人々がハイスクール時代に学んだ歴史の知識などをチラリとひけらかす場面を、時々目にする。これは英国のドラマでは見たことがない。米国文化はしばしば、経済中心で退廃的な傾向が強いと批判の対象になるが、意外にも米国人は国民性として、「教養」に重きを置く。私は実体験として知っているわけではないが、これは企業間の交流でも、しばしば信用度の点で重要な要素になり得ると聞く。

 

ただ、米国の本来の考え方としては、教養を人文科学に限定する思想はなかったはずである。米国は戦前から女子大において化学実験の授業を推進するなど、自然科学の普及にも熱心であった。

これに対して日本では、人文系の学問を教養と見做す傾向が強い。この点については今後の記事で私見を述べたいが、その理由の一つとして、GHQが日本の新制大学に教養教育を持ち込むにあたり、平和教育と工業力弱体化の2重の意図があったためと想像される。

 

戦前の日本の教育体系は、ヨーロッパ型の専門重視であった。日本に限らず、人文系教育の軽視が軍事国化を誕生させる一因となっていた、と米国が考えたのは確かであろう。米国は、似たような占領政策をドイツにも実施している。

とくに日本の場合、教養教育の比率は馬鹿げたものであり、そこに日本の工業力を削ぐ意図があったことは、紛れもない事実と思われる。これが、単位数にして膨大であり、内容にして実質の乏しい「一般教養科目」の始まりであった。これが現在まで引き継がれている。

  

 

消えた姉妹提携

 

個人的な体験談で恐縮だが、私が英国に研究員として滞在中に、勤めていた大学当局から、私の出身大学と姉妹校の提携を検討したいので、ヒアリングに応じて欲しい、との要請があった。

単位の相互認定や交換留学などを含む制度であり、事前に日本の大学の教育体制や教科内容などを知りたい、というのである。

 

たまたまその時期、母校の大学院生が、共同研究のため化学系の学科に滞在しており、彼は学生便覧を携行していた。私はこれを借りてヒアリングに臨んだ。

 

これは私にとって、非常に苦しい場となった。

私が配布した便覧の抜粋コピーでは、科目名が日本語と並び英語表記されていた。私としては余計なものまで見せるつもりはなかったが、あるページの一部に、専門とは明らかに無関係な、非常に多様な科目名が並んでいることに彼等は気が付いた。そして、何を学ぶ学科なのか、との質問が相次いだ。

彼等は「教養科目」という概念やその目的を理解できず、私は一つ一つ、趣旨などを解説しなければならなかった。そして必修科目の単位数、分類などを説明すると、あまりの科目数と多様性に、参加者の多くは首を振り、ため息をついた。

 

第2外国語が必修になっているくだりでは、失笑という程ではないが、かなり白けた空気が漂い始めた。日本人の英語の貧弱さは周知の事実である。もちろん私の話していた英語は、それを裏付けていたはずだ。

「体育実技」がPhysical Excercise と英語表記されていたところでは、「物理学の演習の意味かと思われるが、英語表現が適切でない」と丁重にアドバイスされた。そして、これが実際にGymnastics であるとわかると、爆笑が巻き起こった。

 

結局、専門科目の説明に進む前に、この段階でヒアリングは打ち切られ、提携話は立ち消えとなった。

 

ちなみに、教養科目に体育実技が含まれているのは、戦前の日本の大学が多くの「軍事教練」の教官を抱えていたためである。当然、米国側は教練の廃止を強く申し入れたが、日本側は雇用を守るとしてこれを押し返し、苦肉の策として、「体育」として教養教育に取り込んだそうである。

 

(続く)