浦島太郎の随想

物理屋の妄想タイム

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戦後教育の変遷2 - 占領政策と教養教育

 

 

前回の記事から続く

 

敗戦後のGHQ占領政策により、日本の教育は根底から変えられた。

私が小学校に入学したのは、それからおよそ10年後である。 

 

墨塗りの教科書から

 

戦後の新課程は、民主教育の掛け声のもとに、過去を清算する再出発として国民に歓迎され、希望を持って始められた。

 

新しい教育制度の理念が、中等教育(小・中学校)の現場を閉塞感から解放し、明るくしたのは確かであろう。といっても、当初はまだ戦前教育の名残があり、私が学齢期に達した頃も、学校はまだ変化の途上にあることが、子供心にも随所に感じられた。

 

当時私の家には、ページのあちこちに墨が塗られて読めなくなっている戦前の教科書が、まだ何冊か捨てられずに残っていた。私自身はこれらを使った世代ではないが、最近、女性蔑視の発言で国内外からの顰蹙(ひんしゅく)を買った政治家はこの世代に属する。

 

戦前教育の影響は、この頃は1年単位で大きく減衰して行ったと思われる。その後は減衰が鈍ったのか、私の感覚としてはまだ影響が残っていると思えるが・・・

 

それはともかく、占領政策によって、具体的に日本の教育は、どのように変わったのか?

 

 

平和教育新制大学

 

まず大学教育について述べよう。実は、占領政策による教育改革の実態を知ったのは、私自身、かなり最近である。

私は在職時代の後半に、各大学からの代表で構成される定期的な教養教育の研究会の委員を5年ほど務めた。私の任期の最後の年に、この研究会は終了したが、その最終回にあたり、文部省のOBが招待講演に招かれて、戦後の大学教育の歩みを振り返るトークを行った。

 

ここでOB氏はGHQの政策について、非常に踏み込んだ紹介を行って参加者を驚かせ、この時はじめて、私も実態を知ることになった。これは恐らく、それまで決して公にされなかったものであろう。

 

OB氏の話によると、GHQによる教育への介入には、2本の大きな柱があった。一つは民主教育、平和教育の徹底である。これは公にされ、良く知られている。しかしGHQはその他にも、実に様々な変更を指示しており、これは軍事的な政策としての意味合いが強かった。

 

日本の教育制度の改変を担当していたのは、たった一人の軍人であった。その基本方針は1枚の紙片にまとめられていた。これがアメリカ政府の意向を伝える金科玉条として、その後半世紀にわたり、日本の文部行政を支配することとなった。

 

そして1個人の案にもかかわらず、日本は半世紀にもわたり、この文書に抵触する可能性のある如何なる教育上の施策も、内々に米国政府に打診し、承諾を得なければならなかったそうである。そして米国側は常に、この文書を米国の正式見解とする姿勢を崩さなかった。

 

私はそれまで(おそらく他の殆どの教員も)、カリキュラムの枠組みは文部省が立案し、これを大学に強制しているものとばかり思っていた。実態はそうではなかった、と彼は苦しかった日々の思い出を吐露した。

 

直接的な表現を避ける慎重な言葉使いながら、話の骨子は明確だった。GHQの教育政策の目的は、日本の非軍事化であり、将来にわたり、日本が再軍備の方向に向かうことを阻止することであった。そしてそのためには、日本の工業力を削ぐ必要があった。とくに、軍需産業に直結する可能性のある航空分野や重工業は、解体を余儀なくされた。

 

つまるところ米国にとって、日本の高度な理系教育を弱体化させることが必要だったのである。そのため、GHQはそれまでの旧制高校をすべて大学に昇格させ、徹底した平和教育を中心とする、膨大な文系科目のプログラムを「教養科目」として用意させた。

 

これらは新制大学と呼ばれ、これにより大学の数は飛躍的に増えた。そして同時に高等師範学校、さらに「輝ける専門学校」と呼ばれ、日本の学校教育で最も成果を上げていた技術系の専門学校のいくつかが、新制大学に格上げされた。そして技術系教育は事実上解体され、教養教育中心の課程が組まれた。

 

GHQはまた、同様の教養教育のプログラムを、「帝国大学」にも持ち込んだ。これは大学院にまで及び、最初に示された案では、博士課程になってはじめて、ほんの僅かに専門の単位があるのみ、という有様で、学部はおろか修士課程までもが、オール教養プログラムだった。

 

(続く)