戦後教育の変遷4 ー 和をもって貴しとなす国の民主教育(前編)
前回の記事から続く
最近のある番組で、コリアン・レポートの辺真一氏は、「北朝鮮は戦前日本の落とし子である」と述べておられた。
実際、私は北朝鮮の映像を目にすると、いつも小学生時代の運動会の光景を思い出す。辺氏の言葉通り、戦前の日本の学校教育は、現在の北朝鮮に酷似していたのではないだろうか。
民主教育とマスゲーム
第2回目の記事に書いたように、当時の教育現場は、平和教育・民主教育に対する歓迎ムードに溢れていた。実際に、初等教育が軍国的な基調から大きく変わりつつあることは、子供たちにも解っていた。
しかし、変化したようでいても、現場は一朝一夕に変わるものではない。私の小学生時代、学校では戦前からの延長とも言える「おゆうぎ」というマス・ゲームが盛んであり、運動会などでは、父兄もこれを微笑ましい風物詩として歓迎していた。
これについて当時、学校は父兄や生徒に対して、「民主教育の一環」としてのマスゲームの重要性を、ことさらに強調していた。戦勝国においても教育にラグビーなどの団体競技が取り入れられていることが、引き合いに出されていた。
しかし、マスゲームと民主教育を関連付ける教育関係者の言葉は、子供心にも言い訳がましく、不自然に聞こえた。率直に言って「従順な心を養う訓練」としか思えず、その雰囲気に違和感がつきまとった。この行事は・・・ 戦前と同じことを、続けているのではないか・・・?
その思いは今も変わらない。別の記事にも何度か書いたが、朝礼など、今なお人々に抵抗なく受け入れられている多くの学校行事を見るにつけ、訓練の成果を目の当たりにしている気がする。
伝統と融合した民主主義
現在の初等教育の現場で、マスゲームがどの程度重要視されているかは知らない。が、当時の学校教員の多くは、戦前から継続して勤めていた人々である。日々の活動には当然ながら、歴史的な連続性がある。
実際に、GHQの指導により短期間に導入された戦後の「民主主義」の理念は、様々な混乱の中で、現場の工夫により、戦前の集団主義に絶妙に解析接続されてきた。
私の記憶では、当時の学校教員の多くが「友達同士仲良くせよ」ということを、日々、繰り返し強調していた。これはGHQの「平和教育」の方針に従ったものであろう。
そして、高学年になってしばしば、これに関連して引用されたのが、「和を以って貴しとなす」という、聖徳太子の17条憲法の言葉であった。
新しい考え方は、伝統に適切にマージして、初めて人々に受容される。17条憲法に書かれていた言葉が、新しい民主教育に最も容易に接続できる精神だったのだろう。これは父兄にも、恐らく子供たちにも、受け入れられる考え方であった。
この言葉の本来の意味は別として、新しい教育課程の中で培われた日本の民主主義の概念は、結果的に、議論を深めることを原点とする西欧民主主義と大きく異なるものになった、と私は思っている。
議論 → 対立 → 不和・・・を必然の流れと考える人々にとって、議論を深めることは、和の精神に背くことであるようだ。
子供たち同士で口喧嘩が始まると、掴み合いに発展する前に、教員がやって来て、適切な議論をきちんと行うように指導する・・・ということは、私の記憶する限り、一度もなかった。
教員は「仲良くしなさい」を連呼し、そこで争いを中断させる。実際に掴み合いが始まっていれば、「どちらが先に手を出したか」だけが問題にされ、怒らせて原因を作った者が叱責されることは、殆ど無い。
抗議を申し入れる際の正しいやり方、それに対する誠実な対応・・・
過失があれば丁重に謝罪し、誤解があればきちんと説明する。抗議する側はこれに耳を傾ける。
このような基本は、むしろ戦前の教育の方が、しっかりしていたのではないだろうか?
戦後の民主教育は、単に争いを禁忌するのみで、文化的な先進国では(家庭でも学校でも)最も重視する基本的なマナー教育を、殆ど与えて来なかった。その結果、日本の社会の姿は、幼稚園の砂場の感がある。
国際紛争など解決困難な多くの問題について、西欧民主主義は限界を露呈しつつあり、私は日本流の解決方法をむやみに否定するものではない。
しかし、多数決に従うというルールのみを取り入れ、議論して互いに理解を深めるという視点を欠けば、たちまち問答無用の集団主義に移行する危険を孕む。実際に、日本の社会では、戦後も実質的な集団主義が至る所で発生してきた。
平和国家の建設という点では大きく前進したが、戦後の学校教育は現在まで、社会の意思決定のシステムを根本的に変えるには至らなかった。
ただ幼稚園の砂場も、最近は子供たちがずいぶん行儀良くなったように思う。今後に期待したい・・・