回り道をした人々5(中編)
(前編から続く)
彼に叱責を与えたのは、この一度だけであるが・・・
反逆者の顔
指導を進めるうちに、A君の反逆的な気質は徐々に姿を現すようになった。そして彼は時々、私の指導に逆らった。
実は、ワークステーションの立ち上げの時が最初ではなかった。最初は、卒業研究の発表の時である。自分流のやり方に拘り、ついに最後のリハーサルをすっぽかして、発表会の本番に臨んだ。
発表会では教官が採点し、順位付けを行う。内容的には他の学生より圧倒的に高いレベルであったが、採点結果は下から数えた方が早かった。自分が何をやらされているのか解っていない口パク学生が、軒並み上位に名を連ねた。
私はそのような採点結果になることを予想していたので、あらかじめ注意していたが、彼は「教官同士の争いに、学生を巻き込まないで下さい!」と言い放った。
ストレートな表現に驚いたが、確かに卒業研究の発表会には、そのような側面があったことは否めない。採点の基準にも、教育を妨げると思えるほど馬鹿げたものが幾つかあった。口パクでも高得点が得られるようにしているからである。批判的な意見を持ちながらも、他の教官に同調すると見える私の態度に、彼は苛立っていた。
採点の基準も、悪いものばかりではなかったが・・・不条理な制度でも、それを利用しつつ、自分を成長させなければならない、ということを、彼は理解しなかった。
修士課程に進んでからは、学外の研究会で何度か研究発表させた。彼の自由にやらせた発表は評判が良かった。
実際には、自分で試行錯誤を繰り返し、結果的に私が指導する方向に近づいていた。そのころは、私のアドバイスにもある程度、耳を傾けるようになっていたが。
Y嬢の不満
A君は、他人の面倒を見ることをしなかった。
大学の研究室の良いところは、上級生から下級生へ、様々な知識やコツが代々伝わり、効率の良い学習ができることであるが・・・
彼をこのシステムに組み込むことはできなかった。
また、そのスタンスによって、彼の責任とは言えないものの、研究室内に多少の波風が立つこともあった。
研究室にY嬢という、極端に他人依存型の学生がいた。
私たちのゼミは、学外者も参加するため、土曜日の午前中に行っていたが、その日の朝、彼女はアパートの出入口で車輪を溝にはめ、動けなくなった。
救出のため、ゼミのメンバーは電話でかき集められたが、まだベッドにいたA君は、現場に現れなかった。
救出劇が終了し、ゼミは30分遅れで開始されたが、A君は丁度その時を計ったように研究室に現れた。人々に何をやっていたのかと問われ、いつもどおり朝食を済ませた後、ゼミが少し遅れることを見越して、食後のコーヒーを飲んでいた、と答えた。
「予測はぴったりだった」と付け加えた。
Y嬢は過去にも1度、全く同じ場所で、全く同じように車輪をはめている。そのような場合、彼女はJAFに電話せず、仲間を呼ぶ。自分で何とかする手段があっても、まず知り合いに頼る。
休日の早朝に路上でガス欠になり、私に電話してきたこともあった。記憶が正しければ、正月の2日である。その時は私に見捨てられ、行きずりの男性を捉まえて、ガソリンスタンドまで車を押してもらっていた。(ちなみに、「私に 捨てられ、行きずりの男性を捉まえ・・・」ではない。誤解なきように)。
すべてに手のかかる子であり、「幼稚園児」とか「因幡の白兎」とか言われつつ、結局は人を手伝わせることに成功していたが・・・A君は難攻不落であった。
ある日Y嬢は、私の学生に対する対応が不公平である、と小学生のように不満を訴えてきた。その日のゼミナールでA君は遅刻したが、私が黙って許したことを指摘し、彼は叱られず自分はいつも叱られている、とこぼした。
私が時間に関して厳しくなかったのは事実である。しかし、A君だけを放任していたわけではない。私は学問的なところでは引き締めていたが、それ以外の振る舞いについては、小言をなるべく控えていた。
学生は大人として扱うべき、という考えもあった。私の学生時代には、多くの教官が、学生に敬語で接していた。同様の原則を心がけたのである(現実にはそうもいかなかったが・・・ )。
そして遅刻に関しては、私自身も時間にルーズな人間だったので、ほとんど注意しなかった。前編の記事に「学生は良くも悪くも教師の影響を受ける」と書いたが、A君と私の類似点は、物理学以外にも多々あった。指導教官の欠点は、このようにして受け継がれて行く。
幸いにも殆どの学生は、私がすべての面で厳しい、と勝手に誤解し、時間厳守にも気を付けていた。私は彼等のために、敢えて誤解を解く努力は控えていた。
したがって、Y嬢の不満が解消されることは無かった。
・・・しかし、このような私の指導は、どうも裏目に出た可能性がある・・・
(後編に続く)